2019年11月27日
本質と哲学と科学
今日はちょっと「言語学」や「哲学」に関わる話をします。
私はよく「本質」という言葉を使いますが、
【 一体、「本質」ってなんでしょうね? 】
それ単体だと、抽象的で、漠然としていて、曖昧な言葉です。
私の考える本質とは、
【 全てに共通する要素 】です。
そして、言い換えれば、
それは【 定義 】という言葉になります。
例えば、「果物の本質」とは何でしょうか?
あらゆる果物の全てに共通する要素です。
そしてそれは、「果物の定義」とほぼ同じ意味になります。
小学生の頃、【 スイカは、野菜か? 果物か? 】
というようなクイズが流行りました。
「畑で出来るのが野菜で、木に生るのが果物じゃないか?」
という話なんですけどね。
一般的には、「甘い果実」が果物とされているでしょう。
でも、「ドラゴンフルーツ」はそんなに甘くないし、
「アボカド」は野菜? それとも果物?
「甘くないけどフルーツっぽいモノ」はどっちに分類・定義する?
逆に、フルーツトマトは、甘いけどトマトですよ?
結局、何が野菜か、何が果物かは、【 人間が決める 】という事です。
で、哲学者はここからまた、
「人間の認知・認識とは…」とか、
ややこしい事を考え始めるかも知れませんが…。
一方、私の場合はここで「科学者脳」が働く訳ですけど、
人間が決めることは、科学的とは言えないのです。
科学とは、「人間の見方」を排除した
【 客観的・自然的な視点 】で物事を眺める事です。
だから、科学者(生物学者・植物学者)というのは、
特定の植物を「野菜だ」とか、「果物だ」とか、
そういった分類をしないハズです。
植物を分類するときは、
「単子葉、双子葉」「針葉樹、広葉樹」
そういう分類の仕方です。
例えば、「お肉が食べたいなー」とか言ったときに、
アフリカなら、「サルの肉」が食べられているかも知れないし、
「オヤツが食べたいなー」とか言ったら、
「コオロギ」とかも食べられているかも知れない。
結局、
・何が食えるか? 食えないか?
・何が食用に適しているか? 適していないか?
というのは、人間の主観であって、科学ではありません。
食用植物でいうと、
「品種改良などの開発・発明」は行われるかもしれませんけどね。
確かに発明は「科学の知識」をベースに行われますが、
「科学者の役割」が【 自然のメカニズムを解き明かす事 】であれば、
発明家の役割は、科学の知識を使って、
【 人間の役に立つ実用的な素材・製品を開発する事 】です。
で、「果物の本質」に戻りますけど、結論を言えば、
【 万人が納得する「果物の本質」など無い 】という事です。
なぜなら、人それぞれが主観で決める事だから。
例えば、品種改良や遺伝子操作で、
野菜と果物をかけ合わせた、
新しい植物が出来たらどうですか?
それは、果物になる? 野菜になる?
そんなのは、人間が決める事。
そして、「人間が決めること」は科学ではありません。
【 自然が決めている事 】が、科学です。
昆虫の定義は、
「頭、胸、腹」に分かれていて、「足が六本」です。
これが、【 昆虫の本質 】です。
これは、科学的な視点です。
でも、目の前の食用植物が、
「野菜か? 果物か?」というのは、
まったく、科学的な視点では無いという事です。
何が言いたいか?っていうと、
【 本物の「本質」ってのは、「科学が解明する事」】です。
哲学者が「果物」や「野菜」の事を考えたって、
何も出てこないですよ。
一番私が言いたい事は、
【 本質とは、科学 】なのです。
【 科学によってのみ、解明されること 】です。
・教育の本質とは…?
・ビジネスの本質とは…?
という言い回しがありますけど、
それも、科学(自然法則)がベースになければ、
「真の本質」とは言えません。
エセ本質です。
私は、科学者です。
科学的視点で心理法則を解明してきました。
だから、私は本質を語れるし、
本質を活用して効果的な成果を上げることが出来るのです。
科学がベースにあるから、意図的に発明もできるのです。
真の「本質」とは、哲学ではなくて、
【 科学で扱われるべき要素 】なのです。
そして、人類は「科学的な心理法則」を理解していないから、
人間の本質がわからないのです。(肉体面ではなく精神面)
たとえば、
・オシャレの本質とは何か?
・人は、なぜオシャレをするのか?
本当にその意味と本質を理解しようと思ったら、
「科学的な心理法則」を理解している必要があるのです。
人間の心理法則が理解できれば、
【 人間がオシャレをする意味とオシャレの本質 】が理解できて、
「人間がオシャレをする理由を満たすこと」
を狙った商品・サービスを作れるというという事です。
私はよく「本質」という言葉を使いますが、
【 一体、「本質」ってなんでしょうね? 】
それ単体だと、抽象的で、漠然としていて、曖昧な言葉です。
私の考える本質とは、
【 全てに共通する要素 】です。
そして、言い換えれば、
それは【 定義 】という言葉になります。
例えば、「果物の本質」とは何でしょうか?
あらゆる果物の全てに共通する要素です。
そしてそれは、「果物の定義」とほぼ同じ意味になります。
小学生の頃、【 スイカは、野菜か? 果物か? 】
というようなクイズが流行りました。
「畑で出来るのが野菜で、木に生るのが果物じゃないか?」
という話なんですけどね。
一般的には、「甘い果実」が果物とされているでしょう。
でも、「ドラゴンフルーツ」はそんなに甘くないし、
「アボカド」は野菜? それとも果物?
「甘くないけどフルーツっぽいモノ」はどっちに分類・定義する?
逆に、フルーツトマトは、甘いけどトマトですよ?
結局、何が野菜か、何が果物かは、【 人間が決める 】という事です。
で、哲学者はここからまた、
「人間の認知・認識とは…」とか、
ややこしい事を考え始めるかも知れませんが…。
一方、私の場合はここで「科学者脳」が働く訳ですけど、
人間が決めることは、科学的とは言えないのです。
科学とは、「人間の見方」を排除した
【 客観的・自然的な視点 】で物事を眺める事です。
だから、科学者(生物学者・植物学者)というのは、
特定の植物を「野菜だ」とか、「果物だ」とか、
そういった分類をしないハズです。
植物を分類するときは、
「単子葉、双子葉」「針葉樹、広葉樹」
そういう分類の仕方です。
例えば、「お肉が食べたいなー」とか言ったときに、
アフリカなら、「サルの肉」が食べられているかも知れないし、
「オヤツが食べたいなー」とか言ったら、
「コオロギ」とかも食べられているかも知れない。
結局、
・何が食えるか? 食えないか?
・何が食用に適しているか? 適していないか?
というのは、人間の主観であって、科学ではありません。
食用植物でいうと、
「品種改良などの開発・発明」は行われるかもしれませんけどね。
確かに発明は「科学の知識」をベースに行われますが、
「科学者の役割」が【 自然のメカニズムを解き明かす事 】であれば、
発明家の役割は、科学の知識を使って、
【 人間の役に立つ実用的な素材・製品を開発する事 】です。
で、「果物の本質」に戻りますけど、結論を言えば、
【 万人が納得する「果物の本質」など無い 】という事です。
なぜなら、人それぞれが主観で決める事だから。
例えば、品種改良や遺伝子操作で、
野菜と果物をかけ合わせた、
新しい植物が出来たらどうですか?
それは、果物になる? 野菜になる?
そんなのは、人間が決める事。
そして、「人間が決めること」は科学ではありません。
【 自然が決めている事 】が、科学です。
昆虫の定義は、
「頭、胸、腹」に分かれていて、「足が六本」です。
これが、【 昆虫の本質 】です。
これは、科学的な視点です。
でも、目の前の食用植物が、
「野菜か? 果物か?」というのは、
まったく、科学的な視点では無いという事です。
何が言いたいか?っていうと、
【 本物の「本質」ってのは、「科学が解明する事」】です。
哲学者が「果物」や「野菜」の事を考えたって、
何も出てこないですよ。
一番私が言いたい事は、
【 本質とは、科学 】なのです。
【 科学によってのみ、解明されること 】です。
・教育の本質とは…?
・ビジネスの本質とは…?
という言い回しがありますけど、
それも、科学(自然法則)がベースになければ、
「真の本質」とは言えません。
エセ本質です。
私は、科学者です。
科学的視点で心理法則を解明してきました。
だから、私は本質を語れるし、
本質を活用して効果的な成果を上げることが出来るのです。
科学がベースにあるから、意図的に発明もできるのです。
真の「本質」とは、哲学ではなくて、
【 科学で扱われるべき要素 】なのです。
そして、人類は「科学的な心理法則」を理解していないから、
人間の本質がわからないのです。(肉体面ではなく精神面)
たとえば、
・オシャレの本質とは何か?
・人は、なぜオシャレをするのか?
本当にその意味と本質を理解しようと思ったら、
「科学的な心理法則」を理解している必要があるのです。
人間の心理法則が理解できれば、
【 人間がオシャレをする意味とオシャレの本質 】が理解できて、
「人間がオシャレをする理由を満たすこと」
を狙った商品・サービスを作れるというという事です。
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