2018年07月17日
これまでの正義感
どうも!
「心理の知恵」と「霊能力」を駆使して、
「他人の人生と生命」を救いまくり、
さらには「世界の命運を救う」という
世界で重要な活動をしているにも関わらず、
その「活動の重要性」と比べて、
世界で最も世間から評価されず、感謝もされず、
金銭も全くと言って良いほど受け取っていない中井です。
いやぁ、世界と人類は相変わらずのクソッタレぶりですね。
なぜ、そんな「最低最悪とも言える不遇」の中で
私は全力で活動を続けられるのかって?
【 いつか、みんな思い知る 】
という事に「確信」を持っているからですよ。
・私の教育を受けた人間の「人生」と「生命」が救われていて、
・私の活動によって世界の命運は救われ
・私が常人の理解を遥かに超えた天才であり、
・私が目先の利益を捨て、他人と世界の為に尽くし続けてきた…
という事を、みんな思い知る。
きっと、2年後くらいにはね。
それまでみなさんが無事に生きていれば…の話ですが。
まぁ、時期の予測についてはズレる事が多いですが、
大筋で、私の予測が裏切られた事は無いですね。
今は、みんな「私の賢さ」がわかるほど賢くないから、
まずは、私の賢さがわかるくらいまでには、賢くなってもらおうと、
私が血の滲むような苦労、努力、忍耐の末に辿り着いた、
「史上最高の知識と知恵」を、
あえて【 無料 】で提供している訳です。
みんなが一定レベル以上まで賢くなれば、
私に頭が上がらないし、足を向けて寝られなくなりますよ。
あー、そんな日が来るのが楽しみだから、
その未来の瞬間の為に頑張れるわ。
はい、では今回お伝えする内容ですが、
前回の
【「ネガティブ」や「不快感」にも価値(有益性)がある 】
という事実に対して、
「激しい抵抗」を感じる人も多い様なので、
その抵抗の原因を探ってみました。
で、しばらく思考を巡らせて、探り当てましたが、
【 悪人は裁かれ、罰せられるべきだ! それが正義だ! 】
という観念・価値観が、その抵抗の原因です。
要は、
【「ネガティブ」や「不快感」にも価値がある 】と認めると、
自分の「正義観」が崩れてしまうのです。
それの何がイヤなの?って話ですけど、
【 自分が「善い行い」だと思い込んで努力してきたことが、
実は、まったく「善い行い」でも何でもなかった… 】
という事実を認めるのがイヤなのです。
私も、15歳の時にそれを味わいました。
私の父親はかなりのモラリストなので、その影響で、
私は、「ルールを守ることが大事」だと考えていました。
みんながきちんとルールを守っていれば、
全ては上手く運ぶのに、
一部のルールを守らないヤツが、
調和を乱し、全体に害を為している…
そう信じていました。
しかし私は、自分がルールを守り、
他人にも守らせることに努力してきたのに、
クラスメイトからは煙たがられるわ、
先生からは揉め事を起こす生徒だと認識されるわ、
散々な目に遭いました。
善い事をしているつもりなのに、
まるで上手く行かない、幸せになれない。
私のルール信仰は、そこで崩れ去りましたね。
「善い行いをしようとしている人間が不幸になる世の中なんて、
理不尽で不条理だ、そんな世の中で生きる意味があるのか!」
というのが、私が自殺願望を持った理由です。
あと、受験勉強と睡眠不足によるストレスや、
カップ麺ばかり食べていたっていうのもありますけどね。
ガンジー、リンカーン、ネルソン・マンデラなどの、
世界の偉人、精神的指導者は、もともと法律の専門家でした。
法律の専門家になる人も、正義感の強い人が多いと思います。
でも、ルールを守らないヤツや、
不公平で理不尽なルールがあまりに多く、
過去の偉人達は、ルールに出来る事の限界を悟って、
「ルールの前に、人間の考えを変えなきゃいけない」
という結論に至ったのだと思います。
私も、彼らと同じような
ショッキングな経験を15歳でした訳ですね。
まぁ、昔と相変わらず現在も、
【 善い事をしている人間が大して報われない世界 】
ではありますけどね。
少し話を戻しますが、
とにかく、正義感が強い人間にとっては、
【「善いこと(悪を裁く、罰する)」をして来たつもりでも、
それが実は、何の役にも立っていなかった 】
という事実が、かなりショッキングな内容なのです。
ですから、
【「ネガティブ」や「不快感」にも価値がある 】という事を、
頑なに「認めたく無い気持ち」が働く訳ですね。
「これまで、正義の味方になりたくて、
善いことをしようと努力してきたのに、
自分を律してきたのに、
それが別に、大して何の役にも立っていなかった…、
むしろ、有害ですらあったかもしれない…、」
そんな事実は、なかなか認めたく無い事でしょうね。
しかし、事実は事実と認めないと先へは進めません。
大切な事は、
【「罰する事」と「責任を取らせる事」は、まるで違う 】
という事です。
ポジティブな思想、ポジティブな世界観から見れば、
「罰せられるべき対象」など、どこにもいません。
ただ、【 責任を取らせる必要 】はありますけどね。
例えば、私が害虫の駆除に容赦が無いのは、
害虫というのは、他人の何かを奪う生物だからです。
チョウチョ、バッタ、クワガタ、カブトムシなどは、
別に人間の家に入ってこないし、血も吸いません。
しかし、ヒル、ダニ、蚊などは血を吸いますね?
他人の生命力を奪おうとしているのだから、
それを阻止されて、返り討ちに遭って殺される事も、
仕方がありません。
でも、私には害虫を罰している感覚はまるでありません。
ただ、自分の身を守ろうとしているだけだし、
「人のモノを奪おうとした行為への責任を取らせている」
という感覚です。
「罰を与えるという動機」で厳しさを与える事と、
「責任を取らせるという動機」で厳しさを与える事は、
まったく内容が違います。
各々、自分の行為の責任を取る必要はありますが、
罰せられるべき存在などは、この宇宙に存在しないのです。
「罰」という概念自体が、非常にネガティブなのです。
しかし、一般的な意味で正義感が強い人は、
【 悪人は罰せられるべきだ! 】
という価値観を、無意識レベルに強く抱いています。
その価値観が、
【「ネガティブ」や「不快感」にも価値がある 】
という事実を認めることに抵抗している訳です。
「宇宙自体に善悪は無い、現象自体は中立である…」
心理やスピリチュアルの知識においては
かなり初歩的なフレーズですけど、
顕在意識では理解したつもりでも、
潜在意識レベルではまったく同意できていない様ですね?
正義感が強い事自体は、素晴らしい事だと思います。
「ポジティブな素質を持っている」と言えます。
しかし、
【「ネガティブ」や「不快感」にも価値がある 】
という事実を認めなければ、
その正義感と努力も、間違った方向に費やされてしまいます。
気持ちだけ強くても、
その「強い気持ち」を間違った方向に費やしてしては、
何の役にも立たないのです。
「努力する事は無条件に素晴らしい!」
と考えている人にも多いですが、
正しい方向性で努力をしないと、
結果が伴いませんし、意味がありません。
この世には、【 無駄な努力 】もあるのです。
だからこそ、無駄な努力を避けるために、
先回りして慎重に考えようとするのです。
同じ意味で、この世には【 無駄な正義 】もあるのです。
それが、「悪人を裁き、罰しようとする事」です。
責任を取らせる行為は、ポジティブですが、
「罰する」のも、「責任を取らせないの」も、
どちらもネガティブです。
自分のこれまでの正義感が、
「無駄な正義感だった」と認めることには、
強い抵抗があるかもしれませんが、
それを認めた上で、
【「ネガティブ」や「不快感」にも価値がある 】
という事も認めないと、
そもそも、自分を愛することは出来ません。
そして、自分を愛していない人間は、
本当の意味で、他人への奉仕・貢献は出来ないのです。
自分を愛していない人間は、
他人への奉仕・貢献よりも、
「他人から評価されたい! 認めてもらいたい!」
という気持ちの方が強いんだから。
そんな精神状態では、
本物の奉仕・貢献は出来っこないのです。
どれだけ正義感が強かろうが、
その正義感も、世の中全体の為ではなく、
「自分個人が他人から褒められる為」に使っているに過ぎません。
正義感が強い事自体は、素晴らしい素質ですが、
それだけでは足りません。
「正しい方向に活かせてこそ」です。
「努力家」である事も素晴らしい素質ですが、
頭も使わずに盲目的に努力ばかりしていても、
望ましい結果が伴う訳がありません。
それと同じことです。
ということで、
【「ネガティブ」や「不快感」にも価値がある 】
という事実を早く理解して、さっさと精神的に成長して、
早く私の真価が理解できるレベルまでに達して頂きたいですね。
「心理の知恵」と「霊能力」を駆使して、
「他人の人生と生命」を救いまくり、
さらには「世界の命運を救う」という
世界で重要な活動をしているにも関わらず、
その「活動の重要性」と比べて、
世界で最も世間から評価されず、感謝もされず、
金銭も全くと言って良いほど受け取っていない中井です。
いやぁ、世界と人類は相変わらずのクソッタレぶりですね。
なぜ、そんな「最低最悪とも言える不遇」の中で
私は全力で活動を続けられるのかって?
【 いつか、みんな思い知る 】
という事に「確信」を持っているからですよ。
・私の教育を受けた人間の「人生」と「生命」が救われていて、
・私の活動によって世界の命運は救われ
・私が常人の理解を遥かに超えた天才であり、
・私が目先の利益を捨て、他人と世界の為に尽くし続けてきた…
という事を、みんな思い知る。
きっと、2年後くらいにはね。
それまでみなさんが無事に生きていれば…の話ですが。
まぁ、時期の予測についてはズレる事が多いですが、
大筋で、私の予測が裏切られた事は無いですね。
今は、みんな「私の賢さ」がわかるほど賢くないから、
まずは、私の賢さがわかるくらいまでには、賢くなってもらおうと、
私が血の滲むような苦労、努力、忍耐の末に辿り着いた、
「史上最高の知識と知恵」を、
あえて【 無料 】で提供している訳です。
みんなが一定レベル以上まで賢くなれば、
私に頭が上がらないし、足を向けて寝られなくなりますよ。
あー、そんな日が来るのが楽しみだから、
その未来の瞬間の為に頑張れるわ。
はい、では今回お伝えする内容ですが、
前回の
【「ネガティブ」や「不快感」にも価値(有益性)がある 】
という事実に対して、
「激しい抵抗」を感じる人も多い様なので、
その抵抗の原因を探ってみました。
で、しばらく思考を巡らせて、探り当てましたが、
【 悪人は裁かれ、罰せられるべきだ! それが正義だ! 】
という観念・価値観が、その抵抗の原因です。
要は、
【「ネガティブ」や「不快感」にも価値がある 】と認めると、
自分の「正義観」が崩れてしまうのです。
それの何がイヤなの?って話ですけど、
【 自分が「善い行い」だと思い込んで努力してきたことが、
実は、まったく「善い行い」でも何でもなかった… 】
という事実を認めるのがイヤなのです。
私も、15歳の時にそれを味わいました。
私の父親はかなりのモラリストなので、その影響で、
私は、「ルールを守ることが大事」だと考えていました。
みんながきちんとルールを守っていれば、
全ては上手く運ぶのに、
一部のルールを守らないヤツが、
調和を乱し、全体に害を為している…
そう信じていました。
しかし私は、自分がルールを守り、
他人にも守らせることに努力してきたのに、
クラスメイトからは煙たがられるわ、
先生からは揉め事を起こす生徒だと認識されるわ、
散々な目に遭いました。
善い事をしているつもりなのに、
まるで上手く行かない、幸せになれない。
私のルール信仰は、そこで崩れ去りましたね。
「善い行いをしようとしている人間が不幸になる世の中なんて、
理不尽で不条理だ、そんな世の中で生きる意味があるのか!」
というのが、私が自殺願望を持った理由です。
あと、受験勉強と睡眠不足によるストレスや、
カップ麺ばかり食べていたっていうのもありますけどね。
ガンジー、リンカーン、ネルソン・マンデラなどの、
世界の偉人、精神的指導者は、もともと法律の専門家でした。
法律の専門家になる人も、正義感の強い人が多いと思います。
でも、ルールを守らないヤツや、
不公平で理不尽なルールがあまりに多く、
過去の偉人達は、ルールに出来る事の限界を悟って、
「ルールの前に、人間の考えを変えなきゃいけない」
という結論に至ったのだと思います。
私も、彼らと同じような
ショッキングな経験を15歳でした訳ですね。
まぁ、昔と相変わらず現在も、
【 善い事をしている人間が大して報われない世界 】
ではありますけどね。
少し話を戻しますが、
とにかく、正義感が強い人間にとっては、
【「善いこと(悪を裁く、罰する)」をして来たつもりでも、
それが実は、何の役にも立っていなかった 】
という事実が、かなりショッキングな内容なのです。
ですから、
【「ネガティブ」や「不快感」にも価値がある 】という事を、
頑なに「認めたく無い気持ち」が働く訳ですね。
「これまで、正義の味方になりたくて、
善いことをしようと努力してきたのに、
自分を律してきたのに、
それが別に、大して何の役にも立っていなかった…、
むしろ、有害ですらあったかもしれない…、」
そんな事実は、なかなか認めたく無い事でしょうね。
しかし、事実は事実と認めないと先へは進めません。
大切な事は、
【「罰する事」と「責任を取らせる事」は、まるで違う 】
という事です。
ポジティブな思想、ポジティブな世界観から見れば、
「罰せられるべき対象」など、どこにもいません。
ただ、【 責任を取らせる必要 】はありますけどね。
例えば、私が害虫の駆除に容赦が無いのは、
害虫というのは、他人の何かを奪う生物だからです。
チョウチョ、バッタ、クワガタ、カブトムシなどは、
別に人間の家に入ってこないし、血も吸いません。
しかし、ヒル、ダニ、蚊などは血を吸いますね?
他人の生命力を奪おうとしているのだから、
それを阻止されて、返り討ちに遭って殺される事も、
仕方がありません。
でも、私には害虫を罰している感覚はまるでありません。
ただ、自分の身を守ろうとしているだけだし、
「人のモノを奪おうとした行為への責任を取らせている」
という感覚です。
「罰を与えるという動機」で厳しさを与える事と、
「責任を取らせるという動機」で厳しさを与える事は、
まったく内容が違います。
各々、自分の行為の責任を取る必要はありますが、
罰せられるべき存在などは、この宇宙に存在しないのです。
「罰」という概念自体が、非常にネガティブなのです。
しかし、一般的な意味で正義感が強い人は、
【 悪人は罰せられるべきだ! 】
という価値観を、無意識レベルに強く抱いています。
その価値観が、
【「ネガティブ」や「不快感」にも価値がある 】
という事実を認めることに抵抗している訳です。
「宇宙自体に善悪は無い、現象自体は中立である…」
心理やスピリチュアルの知識においては
かなり初歩的なフレーズですけど、
顕在意識では理解したつもりでも、
潜在意識レベルではまったく同意できていない様ですね?
正義感が強い事自体は、素晴らしい事だと思います。
「ポジティブな素質を持っている」と言えます。
しかし、
【「ネガティブ」や「不快感」にも価値がある 】
という事実を認めなければ、
その正義感と努力も、間違った方向に費やされてしまいます。
気持ちだけ強くても、
その「強い気持ち」を間違った方向に費やしてしては、
何の役にも立たないのです。
「努力する事は無条件に素晴らしい!」
と考えている人にも多いですが、
正しい方向性で努力をしないと、
結果が伴いませんし、意味がありません。
この世には、【 無駄な努力 】もあるのです。
だからこそ、無駄な努力を避けるために、
先回りして慎重に考えようとするのです。
同じ意味で、この世には【 無駄な正義 】もあるのです。
それが、「悪人を裁き、罰しようとする事」です。
責任を取らせる行為は、ポジティブですが、
「罰する」のも、「責任を取らせないの」も、
どちらもネガティブです。
自分のこれまでの正義感が、
「無駄な正義感だった」と認めることには、
強い抵抗があるかもしれませんが、
それを認めた上で、
【「ネガティブ」や「不快感」にも価値がある 】
という事も認めないと、
そもそも、自分を愛することは出来ません。
そして、自分を愛していない人間は、
本当の意味で、他人への奉仕・貢献は出来ないのです。
自分を愛していない人間は、
他人への奉仕・貢献よりも、
「他人から評価されたい! 認めてもらいたい!」
という気持ちの方が強いんだから。
そんな精神状態では、
本物の奉仕・貢献は出来っこないのです。
どれだけ正義感が強かろうが、
その正義感も、世の中全体の為ではなく、
「自分個人が他人から褒められる為」に使っているに過ぎません。
正義感が強い事自体は、素晴らしい素質ですが、
それだけでは足りません。
「正しい方向に活かせてこそ」です。
「努力家」である事も素晴らしい素質ですが、
頭も使わずに盲目的に努力ばかりしていても、
望ましい結果が伴う訳がありません。
それと同じことです。
ということで、
【「ネガティブ」や「不快感」にも価値がある 】
という事実を早く理解して、さっさと精神的に成長して、
早く私の真価が理解できるレベルまでに達して頂きたいですね。
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