2018年07月06日

「自画自賛」と「自己卑下」

私は、「読者の反応・リアクション」を探りつつ、
次に書くべき「記事の内容」を考えています。
  
  
で、前回の記事の反応を探っていると、
  
どうも、「自画自賛」という部分で
躓いている人が多い様に感じました。
  
「自画自賛」という行為に、ものすごく抵抗感がある。
    
  
私は、「自画自賛」に抵抗がないので、
「自画自賛に抵抗する人の気持ち」がわかりにくい。
  
わかりにくいからこそ、
自分にとっては、真剣に考えるべきテーマです。
   
  
で、少し考えて見ましたが、
  
「自画自賛の習慣」に抵抗がある、という事は、
「自己卑下の習慣」を持っている、という事です。
  
  
「自己卑下なんて止めた方がいいよ」と他人から言われても、
  
パッと止められないのは、無意識レベルで
【 自己卑下にメリットを感じているから 】です。
  
  
ただ、私は「自己卑下した経験」がほとんど無いもので…(笑)
  
  
中学3年生の時に自殺願望を持ったときも、
  
【 自分はめちゃくちゃ良い人間なのに、
  そんな良い人間が不幸になる様な「理不尽・不条理な世の中」で、
  生きていく意味があるのか? 】
  
っていう気持ちでしたからね。
  
自分には存在する価値が無い…、という動機ではありませんでした(笑)
   
   
「精神苦よる自殺願望」と言っても、
「絶望感」という部分は共通していますが、
   
何に絶望しているか?は、人それぞれです。
  
・「自分自身に…」かもしれないし、
・「自分を取り巻く境遇に…」かもしれないし、
・「世の中、現代社会に…」かもしれません。
  
  
で、ほとんど自己卑下したことない私ですが、
  
「一回だけ、自己卑下したことあるわ!」と、
自分の経験を思い出しました。
  
  
私は、昔から「結婚に対する自信」は非常に高かったのですが、
「恋愛に対する自信」が非常に低かったです。
  
「結婚」と「恋愛」は、まったくの別分野、別領域ですからね。
  
  
結婚で必要とされるのは、主に「家族愛」とか「経済面」ですが、
恋愛で必要とされるのは、主に「色気」です。
  
過去の私は、「色気」に自信がありませんでしたし、
女性から魅力的に思ってもらえる自信が無かったのです。
  
まぁ、結婚が上手く行くかどうかに、
色気自体はあまり重要ではないですからね。
  
  
当時の私は、好きな女性と繋がっていられるなら、
「自分が折れよう」という気持ちでした。
  
  
要は、お互い自己主張し合って、
意見の相違が生まれ、ケンカ別れするくらいなら、
  
「自分が折れてでも、一緒にいたい…」という気持ちでした。
  
  
それこそが、【 自己卑下 】です。
  
  
寂しいから、自分が折れてでも、一緒に居たい。
  
  
でも、自分を愛し始めると、
  
それは即ち、
【 自分の「価値観」や「主張」を折らない 】という事になります。
  
  
自分を愛する人ほど、
  
無理に他人に合わせなくなるし、
自分の信念を折らなくなって行きますが、
  
「自分の信念を折らない者同士」が出会うと、
当然、【 意見がぶつかり合う可能性 】も生まれます。
  
  
「仲違いのリスク」が生まれる訳です。
  
  
他人に心を開いて折らず、
孤独感を抱えていて、寂しい人ほど、
  
「他人との仲違い」や「一人ぼっち」を怖れています。
  
  
仲違いして「一人ぼっち」になるリスクがあるくらいなら、  
自分が折れている方がマシだ…と判断している訳です。
  
  
ですが、「自分を愛する」という事は、
  
「孤独の道を通ること」でもあるのです。
  
  
私なんて、自分を愛しまくっているし、
  
いくら他人に嫌われようと、仲違いしようと、孤独になろうと、
自分の信念を折る気なんてありませんし、一切の妥協をしません。
  
  
私みたいに、「絶対に一歩も譲りませんよ」というスタンスだと、
  
当然、付き合える人間の幅も狭くなります。
  
  
でも、私はそれでも良いのです。
  
自分の美学、価値観、信念を折らず、
「自分で自分を好きでいられる事」の方が幸せだし、
  
たとえ数が少なくても、
「一歩も譲らない私」と付き合える人たちがいたら孤独ではないし、
  
「付き合いの浅い知人」がたくさんいるより、
「付き合いの深い親友」がたった一人いるほうが、
  
遥かに幸せなのです。
  
  
まず、「自然体の自分」になって、
  
その「自然体な自分」を受け入れてくれる人と付き合った方が、
遥かに幸せだし、快適です。
  
  
その為には、
まず「自然体の自分を愛する」という事が必要です。 
  
自分を愛し始めると、
当然、【 他人と相容れない部分 】も出てきます。
  
  
でも、それで良いのです。
  
  
「価値観が相容れない人」とは、「どのみち別れる運命」なのです。
  
早いか遅いかだけの違い。
  
  
なら、相手が自分と長く付き合える人間かどうか?
  
さっさと判明した方が良いですよね?
  
  
私が自分をオープンにするのは、
リトマス試験紙の様な意味があります。
  
  
まず、自分をオープンしておいて、
それでも私の事に好感を持ってくれる…、
  
そういう人と付き合った方が、効率が良いのです。
  
  
逆に、オープンな私を見て、好感を抱かない人なんて、
  
どうせ長い付き合いが出来ないに決まってますから。
  
  
自分をオープンにすると、
他人が離れていく可能性は当然ながらあります。
  
  
でも、オープンな自分を見て離れていく人なんて、
  
どのみち、長い付き合いは出来ないし、
生産的な関係でもありませんよ。
  
  
「自分をさらけ出す」っていうのは、一種の度胸試しです。
  
孤独になるかもしれないリスクを背負って、
それでも自分を愛そうとするのかどうか?
  
  
「他人との繋がり」と 「自分への愛」と、どっちを取るのか?
  
  
自分を愛していない上での人間関係なんて、
本物の関係じゃありません。
  
カリソメで、ニセモノです。
  
  
自分を愛した上で、他人と関係を築いていかないと、
  
生産的な関係とは言えません。
  
  
自分を愛する為には、
  
【 カリソメの人間関係を一旦捨てる覚悟 】という、
  
「度胸試し」が必要になるのです。
  
  
その覚悟を持てない人が、
「自己卑下している方がマシだ…」という結論に辿り着くのです。
  
  
で、なんでそんなに人間って寂しいと思いますか?
  
そもそもなぜ多くの人は、
大きな寂しさと孤独感を抱えていると思いますか?
  
  
その理由は、【 家族にすら心を開いて接していないから 】です。
  
  
私が昔から割と「孤独な状況」に強かったのは、
  
私の両親が、本音を言い合う仲で、
「オープンハートな家庭だったから」だと思います。
  
  
家族にすら、心を開いていなかったら、
もう、ほとんど誰にも心を開けていないと思います。
  
  
そして、他人に対する態度と、潜在意識に対する態度は同じです。 
  
  
他人に心を閉ざしている人は、
自分の潜在意識に対しても、心を閉ざしています。
  
他人の話を聞かない人は、潜在意識の声も聞いていません。
  
  
この世に、心を開ける相手が…、
本心・本音・本性をさらけ出せる相手が…、
  
たったの一人も存在していない…
  
  
だから、めちゃくちゃ寂しいのです。
  
  
本当は、「自分固有の価値観」や「未熟な部分」も含めて、
自分を認めて、受け入れてくれる人が欲しいのでしょう?
  
  
でも、たったの一人もいないから、とにかく寂しいのです。
  
  
【 自分の両親が、本音を語る人間だったのかどうか? 】
  
もう、それだけで寂しい人間になるかどうか決まってしまいますね。
  
  
そして、とにかくめちゃくちゃ寂しいからこそ、
カリソメの人間関係だったとしても、他人と繋がっていたいのです。
  
  
本当に自分を愛して、
自分の人生を良い方向に持って行きたいのであれば、
  
【 カリソメの人間関係を一旦捨てる覚悟 】を持つ必要があります。
  
  
「カリソメの人間関係を捨てでも、自分を愛する、自画自賛する」
  
そういうプロセスが必要になるのです。
  
  
めちゃくちゃ寂しいからこそ、
カリソメの人間関係にしがみついている訳ですが、
  
一旦、そのカリソメの人間関係すら、捨てなければなりません。
  
  
麻薬中毒者が、「麻薬を断つ覚悟」を決める様なモンです。
  
  
自分を愛していない人は、
  
寂しいから、他人と繋がるために自己卑下していて、
  
自己卑下にメリットを感じているから、自画自賛が出来ないのです。
  
  
・孤独の道を通って、自分を愛し始めるか?
・自己卑下を続け、カリソメの人間関係にしがみつき続けるか?
  
  
さて、あなたはどうしますか?


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haxe501 at 17:08│clip!