2017年08月27日

弟子とは何か?

良い機会なので、
「弟子」と「そうでない人」の区別・定義を、
  
明確にしたいと思います。
  
  
私の弟子になると、何がどうなるのか? と言われると、
   
一番は、私の「気持ち」が違います。
  
  
私は、弟子を「ビッグ」にしようとしています。
  
つまり、将来的に、
【 影響力の大きなリーダー的な人間 】に育てようとしています。
  
まぁ、私のサポートを受けている人の中には、
別に私の弟子で無くてもビッグになりそうな人がいますけどね(笑)
  
  
私の弟子は、世間的に見れば、
「平凡以下のポジション」からスタートしていますが、
  
私は人が変化することを知っていますし、
可能性を信じていますから、
  
たとえ、平凡以下のスタートでも、
【 リーダー的な人間になることは可能 】だと思っています。
   
  
ですから、私は本気でリーダーに育てようとして、
弟子に接しています。
    
  
もし、将来的に「ビッグなリーダー」になる気がゼロなら、
今すぐにでも、弟子を辞めれば良いと思います。
   
  
ということで、私の弟子では無い人に対しては、
  
【 ビッグなリーダー 】にしようと言う気はありません。
  
  
まったくのゼロです。
  
  
まぁ、マイペースにやってもらえらばと思います。
  
  
私は、リーダーに育てようとしている訳で、
  
その為に必要な「サポート」や「指導」を施しますが、
  
もちろん、リーダーになる為には、
「厳しい試練」を乗り越える必要があります。
  
  
リーダーとは、
  
【 自ら「責任」や「リスク」を積極的に背負う人 】です。
  
  
「チキン野郎」とは【 対極の姿勢 】で生きる人間です。
  
  
その姿勢を身に付けてもらうべく、
私は弟子を指導している訳ですが、
  
もし、私から与えられる厳しさを「愛」だと思えない人間も、
弟子を辞めれば良いと思います。
   
   
愛とは何でしょうか?
  
それは、【 大切に思う気持ち、尊重する気持ち 】です。
  
  
「無条件の愛」とは、言い換えれば「自由意志の尊重」です。
  
  
「愛」とは、「尊重」と同じような意味を持ちます。
  
  
私が他人に厳しく接する時、  
それは相手の人生を大切に思い、尊重しているからこそ、
  
そうするのです。
  
  
何とも思っていない人には、何もしません。 
  
無視です。
   
  
エネルギーを割く意味がありません。
  
  
愛とは、「尊重」であり、「エネルギー」を割くことなのです。
    
  
私は相手の人生を「大切」に思い、
「尊重」し、「エネルギー」を割いている訳です。
  
  
だからこそ、本人の人生を「台無し」にするような、
メチャクチャにするような生き方・姿勢・態度をする人には、
  
警鐘を鳴らすわけです。
  
  
もちろん、私の助言を聞き入れるかどうか?も、
  
全ては本人の自由意志ですから、
私のメッセージを無視してもらっても、別に構いません。
  
私は、何とも思いません。
  
  
ただ、私自身にも「自由意志」はありますし、
  
他人を尊重するように、自分を尊重していますから、
  
  
甘えた他人の為に、私が自己犠牲的になる事もありません。
  
  
他人が甘えている事によって、そのシワ寄せで
私に対して無駄な負担を掛けるような事があれば、
  
私はそれに抵抗します。
  
  
要は、「甘えんな」って伝えます。
  
  
それも、視野広く見れば、相手の為です。
  
甘えるなと伝える事は、相手の自立心を促す行為だからです。
  
  
でも今思えば、弟子は勘違いしているのかもしれません。
  
  
弟子とは、偉大な師匠に甘えて、
「困っても何とかしてもらえる立場」だと、
  
とんでもない勘違いをしているのかもしれません。
   
  
その勘違いを正す事も、私の役割になりますが。
  
  
リーダーになる為には、甘えを捨てなければなりません。
  
その甘えを捨てさせるには、厳しい指導が必要です。
    
  
弟子とお客さんであれば、「8:2」ぐらいの割合で、
「エネルギーの割き方」が違います。
  
つまり、違う表現をすると、
弟子の方が、「4倍厳しい内容の指導を受けている」という事です。
  
  
そのおかげで、昔よりは多少責任感は高まったかも知れませんが、
  
でも、まだまだです。
  
  
昔が酷すぎましたから。
  
  
「社会の底辺」から、「平凡以下」くらいに、
ちょっと生活が良くなったからって、
  
もう現状に満足して、向上心を失ってしまうくらいです。
  
  
私は弟子に対して、「可能性を追求する態度」で接しています。
  
もし、自分の可能性を追求するつもりがないなら、
それも、弟子を辞めれば良いと思います。
   
   
別に、弟子が成功を諦めても、
私は自分の見込み違いだったとは思いません。
  
  
「可能性」や「素質」は確かに存在していたのに、
その「可能性」や「素質」を追求し、開花させるつもりが、
  
ただ【 本人には無かった 】と言う事です。  
  
  
ある才能が備わっていたとしても、
それを活かさなければならないという義務もありません。
  
  
才能を無駄にする自由も、
才能を活かさない自由も、全ての自由意志は許されているのです。
  
  
私が、相手に「可能性、素質、才能がある」と見抜いても、
  
それを本人が「活かす生き方」をするかどうかは、完全に本人の自由です。
   
   
途中で、やっぱり才能を活かす生き方はヤメにする。
 
それも、完全に本人の自由です。
  
  
でも、他人の自由意志がどうなるかは、誰にもわからないのです。
  
  
ですから、
他人に関して「絶対にどうなる」なんていう予言は、無いのです。
  
  
「絶対に、あなたは○○という人と結婚する…、」
  
そんな予言もありません。
  
  
相手の気持ちが変わるかもしれませんから。
  
  
高次元存在すら、
他人の自由意志がどう転ぶかは読めないのです。 
  
  
それくらい、自由に自分で決めて良いのです。
  
  
私は、弟子の可能性、才能、素質を全て引き出すつもりで、
指導しています。 
  
  
それを、「なんでそんなに厳しい事言うんですか?」
  
みたいな、被害者意識を持たれるとしたら、
  
  
まず、私が思う「弟子の定義」と、
   
相手が思う「弟子の定義」が違うのでしょう。 
  
  
その土台が違ったら、
ミスコミュニケーションが起きるのも当然です。
   
 
私は、弟子に「甘え」を捨てさせようとしているのに、
  
弟子は、ずっと甘え続けられるものだと
勘違いしているのかもしれません。
  
  
ですから、ここで改めて解説しておきます。
  
  
弟子には、何回も話している事だと思うんですが、
  
奴隷でバカだと、
何でもかんでもすぐに忘れてしまうのでしょうか?
    
  
私には意味不明ですけど。
  
  
まぁ、私は相手がどれだけバカだとしても、
  
私が「自分の指導」に手を抜くことはありません。
   
  
私は、「与えられた目の前の役割に全力を尽くす事」が、
自分の人生にとって一番良いことだと理解しているからです。
    
  
相手がどこまでもバカだとするなら、
  
私はどこまでも深く、「バカでもわかる説明」を研究し、
粘り強く教え続けるだけです。
  
  
それが、私の【 態度、姿勢、生き方 】です。
  
  
そういう前提を理解した上で、
  
【 弟子という立場 】について、考えて頂きたいと思います。


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