2018年03月
2018年03月09日
孤独の理由
私は昔っから、
【 人間最大の恐怖は、「死」と「孤独」】
という風に表現してきました。
人間にとっては、
【 無価値感 】が「最大の精神的苦痛」であるので、
「死」も「孤独」も、
自分の価値を「失った」と思い込んだり、
「感じられなくなる瞬間」だったりするからでしょう。
私は割と、
生まれつき孤独に強い人間だと思います。
一人きりで何かを考えたり、
一人で遊ぶことが好きでしたから(笑)
一人で黙々と考え、実験をしてみる、
【 研究家、発明家体質 】なのです。
かと言って、
別に人付き合いが嫌いという訳でもありませんし、
教育って仕事もしているくらいですから、
他人との有意義な会話は好きです。
そんな孤独に耐性のある私でも、
これまで、非常に強い孤独感を感じて生きてきました。
他人の為にいろいろやっているのに、
感謝されるどころか、
被害者意識を持たれ、敵意を持たれたり、
恩を仇で返されるような事も多々ありましたし、
現在も人類の為にいろいろやっているのに、
人類からは無視されている様なモノですからね。
よく、アニメなんかで、
世界の為に戦っているのに、
民衆から誤解され、嫌われているヒーローっていますよね?
民衆から「出て行け!」とか言われちゃう様な。
そんな感じの立場にいるヒーローの気持ちが、
非常によくわかりましたよ(笑)
まぁ、初めは悲しかったですが、今は完全に慣れっこですね。
人類の抱える「恐怖心の強さ」と、
それに比例した「アホさの具合」を知ったからです。
「理解して欲しい」という期待も消えて、
「それだけアホなら、理解できなくて当然だろ」
って感じに考えが変わりました。
それに、今現在の自分の孤独感が減った理由としては、
結婚して子供も生まれて、
家族が居るということが非常に大きいですね。
そういう意味で、妻子の存在が
以前に比べて私を格段に幸せにしてくれました。
ただ、まだまだ孤独感が完全にない訳ではありません。
「自分と話の合う人間」が少なすぎるので、
そういう人が私にとっては非常に貴重だし、
そんな人と、出会って交流したいと思っています。
もっと他人と自分の考えを共有したり、共感したり、
同じモノを見て笑ったり、楽しんだりしたいのです。
まぁ、人間が期待できなきゃ、宇宙人でも良いです(笑)
私の孤独感を埋めてくれるならね(笑)
それで、私の抱える孤独感は特殊すぎるので、
普通の人の参考にはならないと思いますが、
一般的に「孤独感の大きな理由」は、
【 自然体の自分が、
他人から愛されると思っていない、その自信が無い 】
という事です。
例えば、恋愛には自信があるけど、
結婚には自信が無い…という人がいます。
そういう人は、他人と「心理的な距離感」が近づきすぎると、
どんどん、「自然体の自分」が相手にバレていきます。
で、「自然体の自分」に自信が無いから、
【 他人と心理的距離を近づけたくない… 】というのが理由なのです。
要は、自信が無い「本当の自分」をさらけ出したくないから、
他人と距離を詰めすぎず、
本音ではなく、建前で付き合う事を選択しているのです。
私が育った家庭では、家族がみな自然体でした。
ですから、私の場合、
「家族に対する孤独感」はほとんどありませんでした。
まぁ、私自身が特殊なので、
「家族に自分の考えや苦しみが理解されない孤独感…」
というのはありましたが、
基本的な部分での孤独感はありません。
家族間で孤独を感じる人は、
多くの場合、両親が本音で付き合っていない、
仮面夫婦だったのかもしれませんね。
では、ここからが【 重要かつ核心的な部分 】です。
孤独感を抱えている人の多くは、
なぜ、「自然体の自分に自信が無いのか?」です。
その大きな原因のひとつは、
【 他人の感情を害する事は悪である 】という、
「クソ思いっきり間違った思い込み(定義)」であると思います。
他人と心理的な距離を詰めていこうと思うと、
必ず、「お互いに今まで知らなかった部分」を知る事になります。
そして、
その半分は自分にとって好ましく、都合が良く、
もう半分は、自分にとって好ましくなく、都合が悪い事なのです。
それでも、相手の好ましくない部分を我慢するのではなく、
ポジティブ面を見つけて許し、許容していくから、
相手との「深い繋がり」を感じて、孤独感は消えていくのです。
カンタンに言うと、心理的距離を詰めようとすると、
「互いにイヤな部分が見えてしまう」のは、絶対に避けられない事です。
でも、それを許し合っていくから、
「深い繋がり」を感じて、「孤独感」は消えるのです。
恋愛はイイけど、結婚はイヤ…という人は、
心理的距離を詰めていって、
【 互いにイヤな部分を見せ合う過程 】に、耐えられないのです。
私は、深い繋がりを感じ、信頼関係を構築する上で、
絶対に必要な過程だと理解しているので、
別に、「今まで知らなかった相手のイヤな部分」が見えようと、
一切動じません。
それも全部ひっくるめて、相手を受け入れるだけです。
それぐらいの覚悟は、予め出来ているのです。
整理してステップにすると、
1.心理的距離を詰める
2.互いのイヤな部分(自然体)を見せ合う
3.我慢するのではなく、別に気にならなくなる所まで許す
4.深い繋がり、信頼関係が構築できる、孤独感が減る
という事です。
で、「2番、3番」のプロセスを乗り越えられ無い人は、
「4番」に辿り着く事は絶対に出来ません。
で、深い繋がり、信頼関係を構築し、孤独感を減らすためには、
互いにイヤな気持ちになる事は、往々にしてある事です。
お互いに既に、
精神的にめちゃくちゃ成熟し合っている者同士なら、
別に「互いの新たな部分(自然体)」を発見したところで、
一切イヤな気持ちにはならないでしょうけどね(笑)
まぁ、そういうパターンは地球上ではレアケースなので、
ほとんどの人は、
自分が許していないイヤな部分を、
相手の中に見てしまうモノです。
で、「お互いにイヤな部分を見せる」という事は、
他人と心理的距離を詰めていく上では、
【「ネガティブ感情」も、ほとんど避けられない 】という事です。
で、
【 他人にネガティブ感情を感じさせる事を、悪い事だ 】
と思っている人は、
永久に、「自分の自然体」を他人に見せることができません。
「自分の自然体を見せること」と、
「それを見た誰かがイヤな気持ちをする事」は、
ほとんどセットの様なモノです。
それは、人の価値観(好き嫌い)がバラバラだからです。
本音を出して、「自分はこれが大好き!」という時、
それが、「大嫌いな人」もいるのです。
例えば、私が真実を追究し、それを公開しようとするとき、
「真実が知りたい! 待ってました!」という人と、
「真実なんて知りたくない! 止めてくれ!」という人と、
どちらの考えの人も居るわけです。
この世に、「全員に喜ばれるモノ」なんてありません。
誰かに喜ばれる事は、他の誰かが嫌いな事です。
他人にネガティブ感情を与えない方法は、
・本音を言わない
・何も主張しない
・自然体を出さず、建前で生きる
という事になります。
そうすると、
無難ですが、窮屈な生き方になります。
そして、みんなが仮面を付けて、自然体の自分を出さないから、
永久に他人と「深い繋がり、信頼関係」を構築する事も出来ない、
ずっと「孤独な人生」を歩み続けることになるのです。
孤独感を減らしたいなら、自然体で生きる事です。
そして、
その自然体の姿が好きな人もいれば、嫌いな人もいるのです。
ですから、自然体の自分を好きになってくれる人と、
信頼関係を構築し、付き合っていけば良いのです。
その過程では、当然ながら、
他人にネガティブ感情を与える事もあるでしょう。
【 別に、それの何が悪いの? 】って話なのです。
私は、10年くらい前から、
「感情のメカニズム」について語ってきました。
感情とは、「感じさせた他人」ではなく、
「感じる本人」に責任があるのです。
これが、感情のメカニズムなのです。
10年間言い続けても、
まだほとんどの人が理解していないので、
人間のアホさには、本当に辟易しますけどね。
感情は、本人の観念によって生み出される訳で、
例えば、いくら他人が感情を傷つけようと思っても、
ネガティブ観念を持っていない人を、
精神的に傷つける事は出来ないのです。
まぁ、意図して精神的負荷や負担を掛ける事はできますが、
ここで言う「感情を傷つけること」とは、区別されます。
例えば、宇宙人のバシャールを傷つけようと、
いくら人間が足掻いても、それはほぼ不可能でしょう。
人間からいくら悪口を言われたところで、
まったく気にも留めないでしょうから(笑)
それと同様に、
私を感情的に傷つけるのは、非常に難しい事ですよ(笑)
例えば、誰かが私に嫌がらせをしてきたとしても、
私にとっては、
「それにどう対処すれば、自分好みに上手く収まるか?」
という事を研究する研究対象として、面白く捉えます。
私は、身の程知らずのアホに対して、
自分のアホさを自覚させるのが大好きですから、
「どうやったら自分のアホさを自覚させられるかな?」
とアタマをひねるのも、
自分にとっては面白いゲームです。
まぁ、そんな感じで、
ネガティブ観念を持たない人に対して、
感情的に傷つけようと思っても、
ほぼ不可能なのです。
逆に言うと、感情的に傷つくという事は、
本人が無意識に抱えるネガティブ観念が原因です。
自分の感情を変えられるのは、
他人ではなく、「本人だけ」なのです。
人間は、【 他人の感情に対しては無力 】なのです。
まずそれを理解する必要があります。
「他人に対して何とかしてあげたい」と思っても、
その問題を解決できるのは本人の意志だけです。
他人がやる事というのは、
潜在的に抱えている感情に気付かせるトリガーでしかありません。
本来感情というのは、
自分で生み出しているが故に、
本人しか自分の感情を変えることは出来ないのです。
これは、常識とはかなり違っている話でしょう。
でも、明らかに常識の方が間違っているので、仕方ありません。
「あの人を(感情的に)傷つけてしまった!」と、
嘆く必要は一切無いのです。
ただ、自分が「トリガーの役」になっちゃっただけで、
実際には、【 感情の原因は本人にある 】のです。
要は、
・自分のネガティブ感情を減らしたきゃ、自分が変われ!
・他人のネガティブ感情を減らしたきゃ、無理だから諦めろ!
って話です。
まぁ以前の記事で書きまくっていると思うので、
ここで感情のメカニズムの話は詳しくしません。
もっと知りたい人は、過去の記事でも探して読んで下さい。
とにかく、他人の感情に対して無力ですし、
人間は、自分の感情にしか責任を持つ事はできません。
だから、他人にネガティブ感情を与える事は、
悪い事でも何でも無いのです。
あー、日本人の常識とだいぶ違いますね。
他人に精神的苦痛を与えたとかで、
罪に問われたりする法律があるくらいですから。
でも、人々が感情に対して無知なんだから、
常識の方が間違っているんだから、
仕方ありません。
まぁ、ちょっと補足すると、
悪意を持って、他人に精神的負荷を与えようとしたなら、
その「悪意という動機」が、犯罪になっても仕方無いと思いますが、
悪意もなく、知らず知らずのうちに、
他人にネガティブ感情を与えてしまったぐらいなら、
気にする必要は無いと言う事です。
詐欺だって、「騙すつもりがあったのかどうか?」
という、動機で犯罪になるか決まるでしょ?
それと、同じようなモノです。
とにかく、
【 他人にネガティブ感情を与える事は悪いこと 】
という、クソ間違った思い込みをしている人は、
自分の自然体をさらけ出せないので、
他人と深い繋がり、信頼関係を構築できず、
孤独感を抱えたまま生きたことになる…、という話です。
で、
【 他人にネガティブ感情を与えるのは悪いこと 】
こういう考えって、
「世界の中で日本人が一番強いんじゃないかな?」と思います。
と言う事は、
【 日本人が世界で一番孤独感の強い民族なのかもしれない… 】
という事ですよ。
【 人間最大の恐怖は、「死」と「孤独」】
という風に表現してきました。
人間にとっては、
【 無価値感 】が「最大の精神的苦痛」であるので、
「死」も「孤独」も、
自分の価値を「失った」と思い込んだり、
「感じられなくなる瞬間」だったりするからでしょう。
私は割と、
生まれつき孤独に強い人間だと思います。
一人きりで何かを考えたり、
一人で遊ぶことが好きでしたから(笑)
一人で黙々と考え、実験をしてみる、
【 研究家、発明家体質 】なのです。
かと言って、
別に人付き合いが嫌いという訳でもありませんし、
教育って仕事もしているくらいですから、
他人との有意義な会話は好きです。
そんな孤独に耐性のある私でも、
これまで、非常に強い孤独感を感じて生きてきました。
他人の為にいろいろやっているのに、
感謝されるどころか、
被害者意識を持たれ、敵意を持たれたり、
恩を仇で返されるような事も多々ありましたし、
現在も人類の為にいろいろやっているのに、
人類からは無視されている様なモノですからね。
よく、アニメなんかで、
世界の為に戦っているのに、
民衆から誤解され、嫌われているヒーローっていますよね?
民衆から「出て行け!」とか言われちゃう様な。
そんな感じの立場にいるヒーローの気持ちが、
非常によくわかりましたよ(笑)
まぁ、初めは悲しかったですが、今は完全に慣れっこですね。
人類の抱える「恐怖心の強さ」と、
それに比例した「アホさの具合」を知ったからです。
「理解して欲しい」という期待も消えて、
「それだけアホなら、理解できなくて当然だろ」
って感じに考えが変わりました。
それに、今現在の自分の孤独感が減った理由としては、
結婚して子供も生まれて、
家族が居るということが非常に大きいですね。
そういう意味で、妻子の存在が
以前に比べて私を格段に幸せにしてくれました。
ただ、まだまだ孤独感が完全にない訳ではありません。
「自分と話の合う人間」が少なすぎるので、
そういう人が私にとっては非常に貴重だし、
そんな人と、出会って交流したいと思っています。
もっと他人と自分の考えを共有したり、共感したり、
同じモノを見て笑ったり、楽しんだりしたいのです。
まぁ、人間が期待できなきゃ、宇宙人でも良いです(笑)
私の孤独感を埋めてくれるならね(笑)
それで、私の抱える孤独感は特殊すぎるので、
普通の人の参考にはならないと思いますが、
一般的に「孤独感の大きな理由」は、
【 自然体の自分が、
他人から愛されると思っていない、その自信が無い 】
という事です。
例えば、恋愛には自信があるけど、
結婚には自信が無い…という人がいます。
そういう人は、他人と「心理的な距離感」が近づきすぎると、
どんどん、「自然体の自分」が相手にバレていきます。
で、「自然体の自分」に自信が無いから、
【 他人と心理的距離を近づけたくない… 】というのが理由なのです。
要は、自信が無い「本当の自分」をさらけ出したくないから、
他人と距離を詰めすぎず、
本音ではなく、建前で付き合う事を選択しているのです。
私が育った家庭では、家族がみな自然体でした。
ですから、私の場合、
「家族に対する孤独感」はほとんどありませんでした。
まぁ、私自身が特殊なので、
「家族に自分の考えや苦しみが理解されない孤独感…」
というのはありましたが、
基本的な部分での孤独感はありません。
家族間で孤独を感じる人は、
多くの場合、両親が本音で付き合っていない、
仮面夫婦だったのかもしれませんね。
では、ここからが【 重要かつ核心的な部分 】です。
孤独感を抱えている人の多くは、
なぜ、「自然体の自分に自信が無いのか?」です。
その大きな原因のひとつは、
【 他人の感情を害する事は悪である 】という、
「クソ思いっきり間違った思い込み(定義)」であると思います。
他人と心理的な距離を詰めていこうと思うと、
必ず、「お互いに今まで知らなかった部分」を知る事になります。
そして、
その半分は自分にとって好ましく、都合が良く、
もう半分は、自分にとって好ましくなく、都合が悪い事なのです。
それでも、相手の好ましくない部分を我慢するのではなく、
ポジティブ面を見つけて許し、許容していくから、
相手との「深い繋がり」を感じて、孤独感は消えていくのです。
カンタンに言うと、心理的距離を詰めようとすると、
「互いにイヤな部分が見えてしまう」のは、絶対に避けられない事です。
でも、それを許し合っていくから、
「深い繋がり」を感じて、「孤独感」は消えるのです。
恋愛はイイけど、結婚はイヤ…という人は、
心理的距離を詰めていって、
【 互いにイヤな部分を見せ合う過程 】に、耐えられないのです。
私は、深い繋がりを感じ、信頼関係を構築する上で、
絶対に必要な過程だと理解しているので、
別に、「今まで知らなかった相手のイヤな部分」が見えようと、
一切動じません。
それも全部ひっくるめて、相手を受け入れるだけです。
それぐらいの覚悟は、予め出来ているのです。
整理してステップにすると、
1.心理的距離を詰める
2.互いのイヤな部分(自然体)を見せ合う
3.我慢するのではなく、別に気にならなくなる所まで許す
4.深い繋がり、信頼関係が構築できる、孤独感が減る
という事です。
で、「2番、3番」のプロセスを乗り越えられ無い人は、
「4番」に辿り着く事は絶対に出来ません。
で、深い繋がり、信頼関係を構築し、孤独感を減らすためには、
互いにイヤな気持ちになる事は、往々にしてある事です。
お互いに既に、
精神的にめちゃくちゃ成熟し合っている者同士なら、
別に「互いの新たな部分(自然体)」を発見したところで、
一切イヤな気持ちにはならないでしょうけどね(笑)
まぁ、そういうパターンは地球上ではレアケースなので、
ほとんどの人は、
自分が許していないイヤな部分を、
相手の中に見てしまうモノです。
で、「お互いにイヤな部分を見せる」という事は、
他人と心理的距離を詰めていく上では、
【「ネガティブ感情」も、ほとんど避けられない 】という事です。
で、
【 他人にネガティブ感情を感じさせる事を、悪い事だ 】
と思っている人は、
永久に、「自分の自然体」を他人に見せることができません。
「自分の自然体を見せること」と、
「それを見た誰かがイヤな気持ちをする事」は、
ほとんどセットの様なモノです。
それは、人の価値観(好き嫌い)がバラバラだからです。
本音を出して、「自分はこれが大好き!」という時、
それが、「大嫌いな人」もいるのです。
例えば、私が真実を追究し、それを公開しようとするとき、
「真実が知りたい! 待ってました!」という人と、
「真実なんて知りたくない! 止めてくれ!」という人と、
どちらの考えの人も居るわけです。
この世に、「全員に喜ばれるモノ」なんてありません。
誰かに喜ばれる事は、他の誰かが嫌いな事です。
他人にネガティブ感情を与えない方法は、
・本音を言わない
・何も主張しない
・自然体を出さず、建前で生きる
という事になります。
そうすると、
無難ですが、窮屈な生き方になります。
そして、みんなが仮面を付けて、自然体の自分を出さないから、
永久に他人と「深い繋がり、信頼関係」を構築する事も出来ない、
ずっと「孤独な人生」を歩み続けることになるのです。
孤独感を減らしたいなら、自然体で生きる事です。
そして、
その自然体の姿が好きな人もいれば、嫌いな人もいるのです。
ですから、自然体の自分を好きになってくれる人と、
信頼関係を構築し、付き合っていけば良いのです。
その過程では、当然ながら、
他人にネガティブ感情を与える事もあるでしょう。
【 別に、それの何が悪いの? 】って話なのです。
私は、10年くらい前から、
「感情のメカニズム」について語ってきました。
感情とは、「感じさせた他人」ではなく、
「感じる本人」に責任があるのです。
これが、感情のメカニズムなのです。
10年間言い続けても、
まだほとんどの人が理解していないので、
人間のアホさには、本当に辟易しますけどね。
感情は、本人の観念によって生み出される訳で、
例えば、いくら他人が感情を傷つけようと思っても、
ネガティブ観念を持っていない人を、
精神的に傷つける事は出来ないのです。
まぁ、意図して精神的負荷や負担を掛ける事はできますが、
ここで言う「感情を傷つけること」とは、区別されます。
例えば、宇宙人のバシャールを傷つけようと、
いくら人間が足掻いても、それはほぼ不可能でしょう。
人間からいくら悪口を言われたところで、
まったく気にも留めないでしょうから(笑)
それと同様に、
私を感情的に傷つけるのは、非常に難しい事ですよ(笑)
例えば、誰かが私に嫌がらせをしてきたとしても、
私にとっては、
「それにどう対処すれば、自分好みに上手く収まるか?」
という事を研究する研究対象として、面白く捉えます。
私は、身の程知らずのアホに対して、
自分のアホさを自覚させるのが大好きですから、
「どうやったら自分のアホさを自覚させられるかな?」
とアタマをひねるのも、
自分にとっては面白いゲームです。
まぁ、そんな感じで、
ネガティブ観念を持たない人に対して、
感情的に傷つけようと思っても、
ほぼ不可能なのです。
逆に言うと、感情的に傷つくという事は、
本人が無意識に抱えるネガティブ観念が原因です。
自分の感情を変えられるのは、
他人ではなく、「本人だけ」なのです。
人間は、【 他人の感情に対しては無力 】なのです。
まずそれを理解する必要があります。
「他人に対して何とかしてあげたい」と思っても、
その問題を解決できるのは本人の意志だけです。
他人がやる事というのは、
潜在的に抱えている感情に気付かせるトリガーでしかありません。
本来感情というのは、
自分で生み出しているが故に、
本人しか自分の感情を変えることは出来ないのです。
これは、常識とはかなり違っている話でしょう。
でも、明らかに常識の方が間違っているので、仕方ありません。
「あの人を(感情的に)傷つけてしまった!」と、
嘆く必要は一切無いのです。
ただ、自分が「トリガーの役」になっちゃっただけで、
実際には、【 感情の原因は本人にある 】のです。
要は、
・自分のネガティブ感情を減らしたきゃ、自分が変われ!
・他人のネガティブ感情を減らしたきゃ、無理だから諦めろ!
って話です。
まぁ以前の記事で書きまくっていると思うので、
ここで感情のメカニズムの話は詳しくしません。
もっと知りたい人は、過去の記事でも探して読んで下さい。
とにかく、他人の感情に対して無力ですし、
人間は、自分の感情にしか責任を持つ事はできません。
だから、他人にネガティブ感情を与える事は、
悪い事でも何でも無いのです。
あー、日本人の常識とだいぶ違いますね。
他人に精神的苦痛を与えたとかで、
罪に問われたりする法律があるくらいですから。
でも、人々が感情に対して無知なんだから、
常識の方が間違っているんだから、
仕方ありません。
まぁ、ちょっと補足すると、
悪意を持って、他人に精神的負荷を与えようとしたなら、
その「悪意という動機」が、犯罪になっても仕方無いと思いますが、
悪意もなく、知らず知らずのうちに、
他人にネガティブ感情を与えてしまったぐらいなら、
気にする必要は無いと言う事です。
詐欺だって、「騙すつもりがあったのかどうか?」
という、動機で犯罪になるか決まるでしょ?
それと、同じようなモノです。
とにかく、
【 他人にネガティブ感情を与える事は悪いこと 】
という、クソ間違った思い込みをしている人は、
自分の自然体をさらけ出せないので、
他人と深い繋がり、信頼関係を構築できず、
孤独感を抱えたまま生きたことになる…、という話です。
で、
【 他人にネガティブ感情を与えるのは悪いこと 】
こういう考えって、
「世界の中で日本人が一番強いんじゃないかな?」と思います。
と言う事は、
【 日本人が世界で一番孤独感の強い民族なのかもしれない… 】
という事ですよ。
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2018年03月08日
自分らしく生きる方法
今日も他人に対して、
最近のテーマである「死」について
ガッツリ語ったけれども、
「死の恐怖」を克服しない限り、
「自分らしく生きる」なんて、
【 不可能 】なんですよね。
死を怖れているから、
自分の「人生」や「死に際」について真剣に考えられない。
自分の人生が永遠に続くかのように…、
時間が無限にあるかのように…、錯覚してしまう。
「命や時間が限られている事」を感じていないし、
「死に際に自分が後悔すること」もイメージできないから、
【 やりたい事を全力でやっておくべきだよ! 】
と他人から言われても、全然心に響かない。
「自分らしく生きる事」より、
「自分の保身と延命の方」が気になっちゃうから。
自分のやりたい事を真剣に探そうとするより、
自分の保身と延命に繋がる、
「お金」と「他人からの評価」ばかりが気になる。
で、自己啓発の講師や著者でも、
「自分の死」を怖れている時点で、
「自分らしく」…なんて生きていない訳。
「自分らしく生きよう!」なんて言っている人間が、
まるで自分らしく生きられていない訳(笑)
客が離れる事を怖れて、自分の本音すら言えない訳だし。
「死の恐怖」を克服している人間しか、
「自分らしく生きる事」は不可能だし、
「自分らしく生きる方法」を
教えられる人間がいたとしたら、
その人は、死の恐怖を克服できていないとオカシイ。
「自分らしく生きる方法が知りたい!」というなら、
「自分探しの旅」なんか行っても無意味。
実際、私は旅なんかしてないけど、
自分自身の事をよく理解しています(笑)
「死の恐怖」を乗り越えない限り、
「自分の人生」について真剣に考えることすら不可能だし、
死に際に後悔しないように、
自分のやりたい事を全力でやっておくべき理由も、
まったく理解できない。
私は、自分の人生を思い通りに生きる方法を伝えてきましたが、
「死の恐怖」を乗り越えていない人間は、
そもそも本気で自分の人生を、
思い通りに生きようと思っていない。
【 限られた時間を、悔いなく過ごす事 】よりも、
「自分の保身と延命」に繋がる、
「お金」と「他人の評価」ばかり気になるから。
私は、人生に対して「本気のスイッチ」を入れる方法を、
ずっと研究してきましたが、
この「死の恐怖」というテーマで、
最終地点かなと思っています。
私が語ってきたのは、
人生をより良く生きる方法ですが、
死を恐れている人は、
「人生をより良く生きる」より、
まず、「死の恐怖から逃れるため」に、
【 己の保身と延命 】が優先なのです。
自分の人生をより良く生きるより、
「必ず訪れる死の恐怖」から逃れ続ける事の方が優先…。
絶対に逃れられない死から、逃れ続ける為に、
無謀にも、無駄に時間とエネルギーを注ぎ続ける…。
恐怖で理性が吹っ飛んで、無駄な事ばっかりやっていて、
そりゃ、良い人生なんて生きられるハズが無い。
小学生には、
まず【 自分はいつか絶対に死ぬ 】っていう
超絶当たり前の事を、
教えて、理解させなきゃいけませんね。
「死の恐怖」を克服してこそ、
ようやく、【 自分の人生がスタート 】するのです。
(※ そして、この世には自分の人生を生きないままに死ぬ人が多い。)
最近のテーマである「死」について
ガッツリ語ったけれども、
「死の恐怖」を克服しない限り、
「自分らしく生きる」なんて、
【 不可能 】なんですよね。
死を怖れているから、
自分の「人生」や「死に際」について真剣に考えられない。
自分の人生が永遠に続くかのように…、
時間が無限にあるかのように…、錯覚してしまう。
「命や時間が限られている事」を感じていないし、
「死に際に自分が後悔すること」もイメージできないから、
【 やりたい事を全力でやっておくべきだよ! 】
と他人から言われても、全然心に響かない。
「自分らしく生きる事」より、
「自分の保身と延命の方」が気になっちゃうから。
自分のやりたい事を真剣に探そうとするより、
自分の保身と延命に繋がる、
「お金」と「他人からの評価」ばかりが気になる。
で、自己啓発の講師や著者でも、
「自分の死」を怖れている時点で、
「自分らしく」…なんて生きていない訳。
「自分らしく生きよう!」なんて言っている人間が、
まるで自分らしく生きられていない訳(笑)
客が離れる事を怖れて、自分の本音すら言えない訳だし。
「死の恐怖」を克服している人間しか、
「自分らしく生きる事」は不可能だし、
「自分らしく生きる方法」を
教えられる人間がいたとしたら、
その人は、死の恐怖を克服できていないとオカシイ。
「自分らしく生きる方法が知りたい!」というなら、
「自分探しの旅」なんか行っても無意味。
実際、私は旅なんかしてないけど、
自分自身の事をよく理解しています(笑)
「死の恐怖」を乗り越えない限り、
「自分の人生」について真剣に考えることすら不可能だし、
死に際に後悔しないように、
自分のやりたい事を全力でやっておくべき理由も、
まったく理解できない。
私は、自分の人生を思い通りに生きる方法を伝えてきましたが、
「死の恐怖」を乗り越えていない人間は、
そもそも本気で自分の人生を、
思い通りに生きようと思っていない。
【 限られた時間を、悔いなく過ごす事 】よりも、
「自分の保身と延命」に繋がる、
「お金」と「他人の評価」ばかり気になるから。
私は、人生に対して「本気のスイッチ」を入れる方法を、
ずっと研究してきましたが、
この「死の恐怖」というテーマで、
最終地点かなと思っています。
私が語ってきたのは、
人生をより良く生きる方法ですが、
死を恐れている人は、
「人生をより良く生きる」より、
まず、「死の恐怖から逃れるため」に、
【 己の保身と延命 】が優先なのです。
自分の人生をより良く生きるより、
「必ず訪れる死の恐怖」から逃れ続ける事の方が優先…。
絶対に逃れられない死から、逃れ続ける為に、
無謀にも、無駄に時間とエネルギーを注ぎ続ける…。
恐怖で理性が吹っ飛んで、無駄な事ばっかりやっていて、
そりゃ、良い人生なんて生きられるハズが無い。
小学生には、
まず【 自分はいつか絶対に死ぬ 】っていう
超絶当たり前の事を、
教えて、理解させなきゃいけませんね。
「死の恐怖」を克服してこそ、
ようやく、【 自分の人生がスタート 】するのです。
(※ そして、この世には自分の人生を生きないままに死ぬ人が多い。)
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2018年03月06日
死を怖れる理由
もう、この「死の恐怖」っていうテーマで、
だいたい私の自己啓発に関する研究も終わりかなって思います。
「人生をより良くしたい、充実させたい…」
という向上心、想い、願い…。
それを実現するには、
「死の恐怖」を一番に克服する必要がある。
それが、結論です。
【 人生では、自分に将来どんな苦痛が訪れるか? 】
それはわかりません。
どこかで金銭的に破産するかも知れないし、
肉体的な激痛に襲われる事があるかもしれない…、
なんらかの事故・事件に巻き込まれて、
「失明」したり、「難聴」になったり、
四肢(両手両足)が切断されて、
失う事になるかもしれません。
でも、どのような苦しみに襲われたとしても、
死んだらそれで苦痛は終わりです。
ですから、「死」というのは、
【 激しい苦痛から逃れるための、最後の逃げ場所 】
という側面もあると思います。
私は、未来にどんな苦痛に見舞われるかわからないけど、
最後は、「死ねば苦痛から逃げられる」と思っているので、
自分の保身や利益を捨てて、捨て身の覚悟で、
「己の美学と信念」に従って生きられるのです。
ただ、自殺はスピリチュアル的に良くない様なので、
事故死したり、殺される方がマシかもしれませんが…。
誰にでも等しく訪れる【 死を怖れる 】というのは、
「ご飯を食べたのに、ウンチは出したくない」
と言っているのと同じで、
【 絶対に避けられない物理現象を避けようとしている 】
のと同じです。
一言で言えば、【 無駄な努力 】です。
それでも、ほとんどの人は、
「死の恐怖」から逃れるために、
【 己の保身と延命 】しか考えられないのです。
ほとんどの人は、
【「生きたい」から生きている 】…のではなく、
【「死にたくない」から、生きている 】という状態なのです。
めちゃくちゃ逃げ腰で、受け身の態度です。
絶対に逃げられないモノから、必死に逃げようとする…。
時には、他人を「犠牲」にしたり、「身代わり」にしてまで…。
それが、【 無駄な努力 】でなくて、何なのでしょう?
人なんて、カンタンに死ぬモノです。
毎日、死んだ人のニュースばかりだし、
戦争が起きれば、何万人だって死ぬし。
人の命なんて、【 非常に脆いモノ 】です。
宇宙や大自然の視点から見たら、
【 踏み潰せばカンタンに殺せる「小さなアリ」】と
何も変わらないかもしれません。
それが、【 人の命と死の前提 】です。
平和ボケしている人は、
ニュースで人がたくさん死んでいるのを見ても、
「自分だけはカンタンに死なない」と思っているんだから、
面白いですね。
【 死の恐怖が強いので、「そう思っていたい」 】のです。
「自分はカンタンに死なないし、人生の時間は無限にある…」
死の恐怖が強すぎるあまり、
そんな風に、【 非現実的な幻想・妄想に浸っている 】のです。
幻想や妄想に浸っていないと、己の精神を保てないくらい、
【 人間の精神も、また「脆い」】のです。
真実を知ると、受け止めきれず、パニックになってしまうのです。
それが、ほとんどの人間です。
なのに、
「自分の命はカンタンに散らないし、自分は賢い」
と、【 事実と異なる妄想 】を信じ込んでいるのだから、
「人類のほとんど全員が、精神病」みたいなモノですね。
そもそも、なぜそんなに人間は「己の死」が怖いのでしょう?
全ての現象には、理由があります。
人が死を怖れる理由は、「動物的本能」だけではありません。
私にも動物的本能は備わっています。
生存本能もあります。
それでも、ほとんど「死の恐怖」を感じなくなりました。
もし、人が死んで意識が無に還るのであれば、
あらゆる肉体的感覚も精神的感覚も消えていきます。
ありとあらゆる苦痛から解放されるのです。
そして、あらゆる人々の「人生の最終地点」はそこなのです。
【「死の恐怖」から逃れるためだけに、
「保身」と「延命」に駆けずり回って生きる… 】
って、「なんて勿体無い人生なのか?」と、私は思います。
【 絶対に逃げられないモノから、逃げようとするためだけ 】に、
「自分の人生(時間・労力)」を注いでいるのですから。
でも、どれほど勿体なかろうが、
怖すぎて、頭が働かなくて、損な選択をしてしまうのも、
また【「愚かな人間」の性質のひとつ 】です。
どうですか?
人類って、「アホ(愚か)で、チキン(臆病者)」だと思いません?
そりゃアホすぎて、自分たちが住んでいる惑星の
自然も壊しまくるわ!って感じでしょ?(笑)
にも関わらず、
「自分たちは賢い、正しい判断を下している」と思っていて、
波動とか高次元とか、宇宙人とか、
スピリチュアルなどの情報は怪しいとか言って、バカにしてるんです。
どっちがバカなんでしょうかね?(笑)
自分は、他人をバカにできるくらい、賢いんでしょうかね?(笑)
愚かな人ほど、
【 自分は賢くて、自分に理解できないモノ、ヒトは
「怪しい、劣っている、バカだ…」】
と思ってしまう傾向にあるのです。
ああ、話は逸れましたが、「死を怖れる理由」ですね。
「死んだ後どうなるかわからない…」という未知への恐れとか、
「無になってしまう事がこわい」という恐れとか、
まぁそんなとこでしょう。
スピリチュアル的には、死後の世界はありますが、
まぁ、死後の世界はなく、
意識は無に還るというパターンで話を進めると、
でもまぁ、
「自分が無になることくらい、別に良くない?」って思いますよ。
無から産まれて、無に還る。
別にいいじゃない? それならそれで。
人類全員で、その「自然の摂理」に抵抗しようとしても、
土台無理な話です。
ご飯を食べたら、誰でもウンチが出る。
消えてなくならないのが自然の摂理。
それと一緒でしょ?
私は科学者ですし、
物理学的な視点で世界を捉えますから、
「自然の摂理、法則」に逆らうことなんて、
アホすぎる事だとしか思えません。
ご飯を食べた後に、
「ウンチ消えろ〜〜!!」って願って、
「ウンチに恐怖して、おののいている」のと一緒に見えます。
避けられない事を避けようとするなんて、
時間と労力の無駄です。
それより、
「限られた命と時間を、
どうやってプラスに使っていこうか?」
と考える方が、生産的です。
まぁ、恐怖におののいている人が、
生産的に考えるなんて、不可能な事です。
ですから、まず必要なのは、
恐怖を克服しようという【 勇気・度胸・覚悟 】です。
恐怖でアホになっているから、
「自然の摂理に逆らおう」などと、
無謀で愚かな事に、
時間とエネルギーを割いてしまうのです。
まず、【 死からは逃れられない 】
その事実を、真正面から受け止める事です。
でも、事実や真実を受け止める事ができないほどに、
人類の精神は弱々しい訳ですが…。
まぁ、それでも人生を充実させて悔いなく生きるには、
根性を出すしかありません。
死と生は表裏一体ですし、
そんなに死ぬのが怖けりゃ、
そもそも産まれてこなかった方がいいんじゃねーの?
とすら思いますよ。
「死の恐怖」に囚われ、
「己の保身と延命だけ」に駆けずり回っている姿は、
「高度な知的生命体」の姿では無く、「動物」の姿と同じです。
畜生ではなく、「高度な知的生命体」として生きたければ、
まず、「死の恐怖」を克服する以外にありません。
まぁ、それでも、
そこまでするぐらいなら、
そこまで自分の人生に高望みしてないし、
「畜生ライフで構わないよ」って人もいるでしょうけどね。
それは、個人の自由です。
ただ、「畜生なら、偉そうにすんな」って。
「他人を見下したりすんなよ」って思いますけど。
「二度と、自分は賢くて、他人は愚かだというような、
思い上がった態度は取るなよ」
って思います。
だって根っこが「畜生マインド」なんだから。
恐怖で真実もまともに直視できないくらい、
理性も吹っ飛んでバカになって、
無謀にも無駄な事にエネルギーを注ぎ続けているんだから、
他人を見下せるほどじゃ無いよね?
真実を目に前にしただけでパニックを起こすくらい、
弱くて臆病で愚かなんだから、
「己の分」を弁えて、
謙虚に慎ましく生きた方がいーんじゃね?ってね。
ま、それだけです。
だいたい私の自己啓発に関する研究も終わりかなって思います。
「人生をより良くしたい、充実させたい…」
という向上心、想い、願い…。
それを実現するには、
「死の恐怖」を一番に克服する必要がある。
それが、結論です。
【 人生では、自分に将来どんな苦痛が訪れるか? 】
それはわかりません。
どこかで金銭的に破産するかも知れないし、
肉体的な激痛に襲われる事があるかもしれない…、
なんらかの事故・事件に巻き込まれて、
「失明」したり、「難聴」になったり、
四肢(両手両足)が切断されて、
失う事になるかもしれません。
でも、どのような苦しみに襲われたとしても、
死んだらそれで苦痛は終わりです。
ですから、「死」というのは、
【 激しい苦痛から逃れるための、最後の逃げ場所 】
という側面もあると思います。
私は、未来にどんな苦痛に見舞われるかわからないけど、
最後は、「死ねば苦痛から逃げられる」と思っているので、
自分の保身や利益を捨てて、捨て身の覚悟で、
「己の美学と信念」に従って生きられるのです。
ただ、自殺はスピリチュアル的に良くない様なので、
事故死したり、殺される方がマシかもしれませんが…。
誰にでも等しく訪れる【 死を怖れる 】というのは、
「ご飯を食べたのに、ウンチは出したくない」
と言っているのと同じで、
【 絶対に避けられない物理現象を避けようとしている 】
のと同じです。
一言で言えば、【 無駄な努力 】です。
それでも、ほとんどの人は、
「死の恐怖」から逃れるために、
【 己の保身と延命 】しか考えられないのです。
ほとんどの人は、
【「生きたい」から生きている 】…のではなく、
【「死にたくない」から、生きている 】という状態なのです。
めちゃくちゃ逃げ腰で、受け身の態度です。
絶対に逃げられないモノから、必死に逃げようとする…。
時には、他人を「犠牲」にしたり、「身代わり」にしてまで…。
それが、【 無駄な努力 】でなくて、何なのでしょう?
人なんて、カンタンに死ぬモノです。
毎日、死んだ人のニュースばかりだし、
戦争が起きれば、何万人だって死ぬし。
人の命なんて、【 非常に脆いモノ 】です。
宇宙や大自然の視点から見たら、
【 踏み潰せばカンタンに殺せる「小さなアリ」】と
何も変わらないかもしれません。
それが、【 人の命と死の前提 】です。
平和ボケしている人は、
ニュースで人がたくさん死んでいるのを見ても、
「自分だけはカンタンに死なない」と思っているんだから、
面白いですね。
【 死の恐怖が強いので、「そう思っていたい」 】のです。
「自分はカンタンに死なないし、人生の時間は無限にある…」
死の恐怖が強すぎるあまり、
そんな風に、【 非現実的な幻想・妄想に浸っている 】のです。
幻想や妄想に浸っていないと、己の精神を保てないくらい、
【 人間の精神も、また「脆い」】のです。
真実を知ると、受け止めきれず、パニックになってしまうのです。
それが、ほとんどの人間です。
なのに、
「自分の命はカンタンに散らないし、自分は賢い」
と、【 事実と異なる妄想 】を信じ込んでいるのだから、
「人類のほとんど全員が、精神病」みたいなモノですね。
そもそも、なぜそんなに人間は「己の死」が怖いのでしょう?
全ての現象には、理由があります。
人が死を怖れる理由は、「動物的本能」だけではありません。
私にも動物的本能は備わっています。
生存本能もあります。
それでも、ほとんど「死の恐怖」を感じなくなりました。
もし、人が死んで意識が無に還るのであれば、
あらゆる肉体的感覚も精神的感覚も消えていきます。
ありとあらゆる苦痛から解放されるのです。
そして、あらゆる人々の「人生の最終地点」はそこなのです。
【「死の恐怖」から逃れるためだけに、
「保身」と「延命」に駆けずり回って生きる… 】
って、「なんて勿体無い人生なのか?」と、私は思います。
【 絶対に逃げられないモノから、逃げようとするためだけ 】に、
「自分の人生(時間・労力)」を注いでいるのですから。
でも、どれほど勿体なかろうが、
怖すぎて、頭が働かなくて、損な選択をしてしまうのも、
また【「愚かな人間」の性質のひとつ 】です。
どうですか?
人類って、「アホ(愚か)で、チキン(臆病者)」だと思いません?
そりゃアホすぎて、自分たちが住んでいる惑星の
自然も壊しまくるわ!って感じでしょ?(笑)
にも関わらず、
「自分たちは賢い、正しい判断を下している」と思っていて、
波動とか高次元とか、宇宙人とか、
スピリチュアルなどの情報は怪しいとか言って、バカにしてるんです。
どっちがバカなんでしょうかね?(笑)
自分は、他人をバカにできるくらい、賢いんでしょうかね?(笑)
愚かな人ほど、
【 自分は賢くて、自分に理解できないモノ、ヒトは
「怪しい、劣っている、バカだ…」】
と思ってしまう傾向にあるのです。
ああ、話は逸れましたが、「死を怖れる理由」ですね。
「死んだ後どうなるかわからない…」という未知への恐れとか、
「無になってしまう事がこわい」という恐れとか、
まぁそんなとこでしょう。
スピリチュアル的には、死後の世界はありますが、
まぁ、死後の世界はなく、
意識は無に還るというパターンで話を進めると、
でもまぁ、
「自分が無になることくらい、別に良くない?」って思いますよ。
無から産まれて、無に還る。
別にいいじゃない? それならそれで。
人類全員で、その「自然の摂理」に抵抗しようとしても、
土台無理な話です。
ご飯を食べたら、誰でもウンチが出る。
消えてなくならないのが自然の摂理。
それと一緒でしょ?
私は科学者ですし、
物理学的な視点で世界を捉えますから、
「自然の摂理、法則」に逆らうことなんて、
アホすぎる事だとしか思えません。
ご飯を食べた後に、
「ウンチ消えろ〜〜!!」って願って、
「ウンチに恐怖して、おののいている」のと一緒に見えます。
避けられない事を避けようとするなんて、
時間と労力の無駄です。
それより、
「限られた命と時間を、
どうやってプラスに使っていこうか?」
と考える方が、生産的です。
まぁ、恐怖におののいている人が、
生産的に考えるなんて、不可能な事です。
ですから、まず必要なのは、
恐怖を克服しようという【 勇気・度胸・覚悟 】です。
恐怖でアホになっているから、
「自然の摂理に逆らおう」などと、
無謀で愚かな事に、
時間とエネルギーを割いてしまうのです。
まず、【 死からは逃れられない 】
その事実を、真正面から受け止める事です。
でも、事実や真実を受け止める事ができないほどに、
人類の精神は弱々しい訳ですが…。
まぁ、それでも人生を充実させて悔いなく生きるには、
根性を出すしかありません。
死と生は表裏一体ですし、
そんなに死ぬのが怖けりゃ、
そもそも産まれてこなかった方がいいんじゃねーの?
とすら思いますよ。
「死の恐怖」に囚われ、
「己の保身と延命だけ」に駆けずり回っている姿は、
「高度な知的生命体」の姿では無く、「動物」の姿と同じです。
畜生ではなく、「高度な知的生命体」として生きたければ、
まず、「死の恐怖」を克服する以外にありません。
まぁ、それでも、
そこまでするぐらいなら、
そこまで自分の人生に高望みしてないし、
「畜生ライフで構わないよ」って人もいるでしょうけどね。
それは、個人の自由です。
ただ、「畜生なら、偉そうにすんな」って。
「他人を見下したりすんなよ」って思いますけど。
「二度と、自分は賢くて、他人は愚かだというような、
思い上がった態度は取るなよ」
って思います。
だって根っこが「畜生マインド」なんだから。
恐怖で真実もまともに直視できないくらい、
理性も吹っ飛んでバカになって、
無謀にも無駄な事にエネルギーを注ぎ続けているんだから、
他人を見下せるほどじゃ無いよね?
真実を目に前にしただけでパニックを起こすくらい、
弱くて臆病で愚かなんだから、
「己の分」を弁えて、
謙虚に慎ましく生きた方がいーんじゃね?ってね。
ま、それだけです。
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2018年03月05日
自分の死に対する結論
よく、映画やドラマ、マンガなんかで、
人が殺されそうな時に、
・「命だけは、お助けを〜!」
・「イヤだ〜!! 死にたくない〜!!」
ってセリフが出てきますよね。
今の自分は、それに全く共感出来なくなりました(笑)
そこで自分が死ぬなら、それが「死に時」かなって思うからです。
今死ぬとしたなら、それが「自分の死に時」なんだから、
なんで抗うのか?と(笑)
私は、いつ死ぬ覚悟も出来ているのです。
私は、「自分の命」を高次元存在に預けていますから、
「自分の死に時は、高次元存在が決める」と思っているし、
高次元存在が「今死ね」と言うなら、それに従うだけです。
以前にも言いましたが、
祖国に忠誠を誓い、
祖国の為にいつでも死ぬ覚悟ができている、
騎士みたいなモノです。
【 誰でも死ぬし、死に時は選べない 】
それを、私は完全に受け入れています。
だから、死に抗わない。
死に対して、完全に降伏しているのと同じです。
だって、絶対に避けられないんだから。
もちろん、
生きてやるべき事があるなら、
生きようとしますよ。
私が生きて仕事をした方が意義があるなら、
当然ながら、何が何でも生きます。
でも、高次元存在的に、
「こいつはここで死んだ方が意義があるな…」
と言うなら、死ぬことも厭いません。
イエス・キリストだって、
高次元存在のそういう判断で、死んだのかもしれません。
【 生きて仕事を続けるよりも、ここで死んだ方が、
後世により大きく貢献できる… 】
そういう判断だったのかもしれません。
死に勝つ事はできません。 不老不死は無いのです。
死には絶対に勝てないのだから、抗わずに降伏した方が良い。
死自体に抗うことは、無謀で愚かな挑戦です。
私は、死について徹底的に先回りして考えたからこそ、
「自分の死」に対して、【 明確な結論 】を出すことができたのです。
生きる事に意義があるなら生きますが、
死ぬことの方に意義があるなら、私はいつでも死にます。
「自分がどうしたい」より、「高次元存在の判断」を優先します。
それが、私の決断です。
人が殺されそうな時に、
・「命だけは、お助けを〜!」
・「イヤだ〜!! 死にたくない〜!!」
ってセリフが出てきますよね。
今の自分は、それに全く共感出来なくなりました(笑)
そこで自分が死ぬなら、それが「死に時」かなって思うからです。
今死ぬとしたなら、それが「自分の死に時」なんだから、
なんで抗うのか?と(笑)
私は、いつ死ぬ覚悟も出来ているのです。
私は、「自分の命」を高次元存在に預けていますから、
「自分の死に時は、高次元存在が決める」と思っているし、
高次元存在が「今死ね」と言うなら、それに従うだけです。
以前にも言いましたが、
祖国に忠誠を誓い、
祖国の為にいつでも死ぬ覚悟ができている、
騎士みたいなモノです。
【 誰でも死ぬし、死に時は選べない 】
それを、私は完全に受け入れています。
だから、死に抗わない。
死に対して、完全に降伏しているのと同じです。
だって、絶対に避けられないんだから。
もちろん、
生きてやるべき事があるなら、
生きようとしますよ。
私が生きて仕事をした方が意義があるなら、
当然ながら、何が何でも生きます。
でも、高次元存在的に、
「こいつはここで死んだ方が意義があるな…」
と言うなら、死ぬことも厭いません。
イエス・キリストだって、
高次元存在のそういう判断で、死んだのかもしれません。
【 生きて仕事を続けるよりも、ここで死んだ方が、
後世により大きく貢献できる… 】
そういう判断だったのかもしれません。
死に勝つ事はできません。 不老不死は無いのです。
死には絶対に勝てないのだから、抗わずに降伏した方が良い。
死自体に抗うことは、無謀で愚かな挑戦です。
私は、死について徹底的に先回りして考えたからこそ、
「自分の死」に対して、【 明確な結論 】を出すことができたのです。
生きる事に意義があるなら生きますが、
死ぬことの方に意義があるなら、私はいつでも死にます。
「自分がどうしたい」より、「高次元存在の判断」を優先します。
それが、私の決断です。
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2018年03月04日
「死」の三大特性
前々回の、「死と命」の記事は、
人によってはかなり衝撃だったと思います。
私は読者の反応を、遠隔でも感じますからね。
パニックになったり、
アタマが真っ白になった人もいるでしょう。
それだけ、人は普段から、
「死と命、人生」について深く考えていないのです。
なぜなら、【 考えるのが怖いから 】です。
死ぬことが怖いので、考えたく無いのです。
でも、私の記事を読むと、
半強制的に考えさせられると思うので、
自分の人生と深く向き合う意志のある人だけ、
読んでもらえれば良いかなと思います。
「死」について深く考えれば、
自ずと「自分がどう生きるか?」も決まってきます。
ですから、まずは「自分の人生」を考える前に、
【 自分の「死」について考える事 】が優先なのです。
で、いきなり「死について考える」と言っても、
何をどう考えたら良いのかわからないでしょうから、
私が、思考を整理しやすいように、
ヒントというか、ガイドラインを示したいと思います。
まず、死について考える上では、
【 死の特性 】を知る必要があります。
私が思うに、死には
【 大きく3つの特性(前提)がある 】と思うので、
まずは、それを紹介したいと思います。
《 第1.死は誰にでも等しく訪れる 》
この世に「不老不死の人」なんていません。
ファンタジーやSFの世界などでは、
不老不死の人が出てきますけど、
「死にたくても死ねない状態」って、
あんまり幸せそうじゃ無いですよね。
だいたい、不幸なキャラとして描かれています。
にも関わらず、
昔の権力者が、「不老不死の薬」などを求めたのは、
ただ、死ぬのが怖くて、
「ただ目先の死の恐怖から逃れたかった」という、
恐怖心から来る想いが、本質的な動機なのです。
とにかく、【 人はいつか絶対に死ぬ 】のです。
《 第2.誰が、いつ、どこで死ぬかわからない 》
自殺を除いて、
人間は「死に場所、死に時」を自由には選べません。
産まれて数日で死ぬ短命な新生児もいれば、
100歳を超えて生きる長寿の人もいます。
突然、事件や事故に巻き込まれて死ぬ可能性は、
誰にでもありますし、
それ(事件・事故)が、ある日突然、
自分の家族や親しい人に
降りかかって死ぬ場合もありますし、
自分が死ぬかもしれません。
誰が、いつ、どこで死ぬかはわからないのです。
それが、死の前提です。
《 第3.死後の世界は、あるかもしれないし、無いかもしれない 》
死んだ後の事を考えると、
・死後の世界や、輪廻転生が存在して、
「死んだ後も意識が続く」かもしれないし、
・死後の世界や、輪廻転生は存在せず、
死んだら「ただ意識は無に還るだけ」かも知れない。
この、3つの特性(前提)が、
「死」と「人生」について深く考える上で、
念頭に置くべき要素だと思います。
まぁ、ゲームにおける「基本ルール」みたいなモノですよ。
私は、この死の3つの特性を前提として、
【 自分がどう生きるべきか? 】
というテーマに結論を出しています。
まず、第1と第2の特性ですが、
・誰でもいつか死ぬし、
・いつ何処で誰が死ぬかはわからない
これが、死における基本です。
誰でも、人生のゴールは死なのです。
・金持ちになったから終わりじゃない。
・夢が叶ったから終わりじゃない。
何らかの目標を達成しても、
それは人生のゴールではなく、
死ぬまで人生は続くのです。
死んだときに、人生は終わるのですから、
【「人生のゴール」とは、「死」】なのです。
誰が、いつ、どこで死ぬかはわかりません。
私が、明日死ぬかも知れません(笑)
死は、いつ、どうやって訪れるかわかりません。
わからないのであれば、
【 いつ「死」が訪れても良い様に生きる 】
これが、最善の選択であるハズです。
「いつ死んでも、満足して死ねる」
そんな生き方を私は目指そうとしています。
「いつ死んでも満足して死ねる生き方」って言うのは、
私にとっては、
・全力を尽くす
・毎日やりたい事をやる
という事なので、限り無くそういう風に生きています。
もちろん、今すぐ死ぬとしたら、
「もっと人生であれがやりたかったなぁ…」
と思う事もあるかもしれません。
あのゲーム、クリアしたかったなぁ…とか?(笑)
でも、その瞬間、瞬間、
時間を最大限に有効活用して、
全力を尽くすことしか出来ませんし、
「死に時」は選べないのだから、
時間を最大限に有効活用して、
それでも時間が足りなかったのであれば、
それは【 物理的に出来なかった事 】として、
潔く諦めるしかないと思います。
私が、今死ぬとして、
「あぁ、あのゲームをクリアしたかったなぁ…」
と思うとします。
でも、日々の時間を無駄にしていたら、
「もし、もっと時間を有効活用していたら、
ゲームをクリアできていたかもしれないのに…」
と、後悔の念が沸いてくるでしょう。
でも、時間を最大限に有効活用していたら、
「自分の限界までやって、
それでも時間が足りなかったんだから、仕方が無いな…」と、
カンタンに諦めが付きます。
・時間を無駄にしていたのか?
時間を有効活用していたのか?
・やりたい事を心ゆくまでやっていたのか?
やりたい事をやり残しているのか?
で、【 死ぬ時の気分 】が違いますよね?
私は、「良い気分で死にたい」ので、
無駄な時間を省き、時間を有効活用し、
最大限に、やりたい事に時間を使うのです。
自分が死ぬことをビビっている限り、
上記の様な考えも出来ませんし、
ただ、死について考えないようにして、
「人生の時間が無限にあるかのよう」に、過ごしてしまいます。
そして、全力も尽くさず、やりたい事もやらず、
死ぬ時に後悔し、【 最悪な気分で死ぬ事 】になるのです。
私は、
生きている間も良い気分でいたいし、
死に際も良い気分でいたいのです。
その為には、
【 時間を無駄にせず、毎瞬、全力でやりたいことをやる 】のが、
一番の策だと結論づけました。
だから、「時間」と「体調(エネルギー)」と「経済力」が許す限り、
仕事においても、
出来る限り「全力でやりたい仕事」をやるし、
プライベートにおいても、
出来る限り「全力でやりたい事」をやっています。
これは、私個人の結論ですから、
別に誰にでも当てはまる絶対に正しい事だ
と言うつもりなどありません。
自分は違うなと思ったら、参考程度に留めておいてください。
私は、上記のような生き方を選択しているので
【 いつ死ぬとしても、後悔なく、それなりに満足して死ねる 】と思います。
で、次に「第3の特性」の話に移ります。
【「死後の世界、輪廻転生」は、
あるかもしれないし、無いかもしれない。】
こればっかりは、わかりません。
もちろん私は、死後の世界を「ある」と思っていますよ。
ただ、明確な物的証拠は出せませんからね。
私は、状況証拠を積み上げているだけですから。
なので、私は
死後の世界があったとしても、無かったとしても、
【 どちらに転んでも自分が得をする生き方 】を目指しています。
たとえば、死後の世界が無く、
「死んだら意識は無に還る」としましょう。
もし、そうだったら、
ラスベガスで銃を乱射して、何十人も殺して、自殺する。
そんな事をしても、
死んでしまったら自分のやったこともわからないし、
意識がないのだから、罪悪感すら感じることはありません。
きっと、【 メチャクチャやって、自殺する… 】
という選択をする人は、
きっと死後の世界を信じていないのでしょう。
生きている間に何をやっても、
「死んだらチャラ」だと思っているのです。
どんなに苦労や努力をしても、
死んでどうせチャラになるんだから、
生きている間の苦労や努力なんて、
積んでもそれほど意味が無いんじゃ無いの?
死んだら全てチャラになるなら、
出来る限り、ラクして生きたいわ〜と。
小学生や中学生は、
「明日地球が滅亡するとしたら、何をする?」
みたいな話を、友達としますよね?
そこで、
【 どうせ死ぬんだから、泥棒したり、人を襲ったり、
他人に迷惑を掛けまくってから死ぬ! 】
って言う人は、死後の世界を信じていないのです。
まぁ、それはわかりますけど、
もし死後の世界があるとしたら、
それは【 最悪の選択 】です(笑)
もし、死後の世界があって、
人の意識や魂は、輪廻転生を繰り返し、
自分が他人にやったことは過去世、来世をまたいで、
自分に返ってくる…。
本当にそういう仕組みだったら、
メチャクチャやって、
他人に迷惑掛けまくってから死ぬって言う選択は、
自分の為にまったくなりません。
きっと、死んだ後も、
来世以降苦しみ続ける事になるでしょう。
「死んだら全てがチャラになる」なら、
ムチャクチャやって、他人に迷惑かけても、
好き放題に自分の欲望を満たしてから死ぬっていう選択も、
一見、妥当のように思えます。
でも、死後の世界が存在しているパターンの場合、
その選択は、非常にリスキーです。
私は、【 死後の世界、輪廻転生、過去世のカルマ 】があるとしたら、
出来る限り、生きている間に他人に奉仕貢献している方が、
自分の為にもなるじゃん!と思う訳です。
・生きている間もハッピーに生きて、
・死後の世界があるパターンの場合は、
死んでからもハッピーになれる。
私は、そういう生き方を選択しているのです。
具体的に箇条書きにすると、下記になります。
・時間を無駄にしない
・毎瞬、全力を尽くす
・仕事も遊びも、極力やりたい事だけをやる
・やりたくない事は極力やらない
・日々の生活を快適に暮らすために、
自営業のライフワークで経済的にも成功する
・死後の世界があるパターンを考えて、
出来る限り、他人に奉仕貢献する
・親しい人、愛する人がいつ死んでも後悔しないよう、
その時、その時で、自分にやれる事はやっておく。
文章にすると、
【 時間を無駄にせず、時間、体調、お金が許す限り、
仕事も遊びもやりたい事に全力投球。
やりたくない事はやらない。
「死後の世界・輪廻転生」があるパターンを考えて、
仕事でもプライベートでも、他人への奉仕貢献になる事をする。】
という事です。
でも、【 言うは易し、行うは難し 】かもしれませんね。
私のような生き方をする為には、
【 ありとあらゆる、「全ての恐怖を克服」していく必要 】
がありますから。
まぁ、大変っちゃ大変です。
でも、私は賢いので、
長期的に見てベストな選択って言うのがわかってしまう。
大変な道のりだとしても、
自分は「ベストな選択」をするしか無いのです。
「ベストな選択」だとわかっていながら、
それを選択しないって、相当アホですからね(笑)
理解に苦しむくらい。
私は、中学生の時に自殺願望を持って、
「死、命、人生」について、深く考えました。
その時に、ここまで深く考えていた訳ではありません。
ただ、【 死、命、人生について考える習慣 】が身に付きました。
そして大人になって、いろいろ勉強、研究していく中で、
さらに、「死、命、人生」についての見識を深めていったのです。
そして、ある時、
上記の様な「生き方」をすれば良いじゃん!
という最終結論に辿り着いたのです。
まぁ、私と同じ様な生き方を、誰もが選択するとは思いません。
ただ、「参考材料」や「ヒント」としては、
結構大きく役に立つんじゃないかな? と思います。
それに、【 3つの特性(前提)は、万人共通 】です。
《 第1.死は誰にでも等しく訪れる 》
《 第2.誰が、いつ、どこで死ぬかわからない 》
《 第3.死後の世界は、あるかもしれないし、無いかもしれない 》
このルールは、誰にでも当てはまりますから、
これを基準に考える事は、オススメ出来ます。
ゲームをプレイするには、
まずルールを把握しなければなりませんからね。
言い換えれば、上記の「死の3つの特性」が、
【 人生を生きる上での基本ルール 】なのです。
でも、基本ルールを把握・理解せずに、
プレイしている人が、なんと多い事か。
基本ルールを把握・理解していないから、
上手くゲームを楽しめないのです。
人生は、ゲームです。
ルールを知る人は、主体的にゲームを楽しめますが、
ルールを知らない人は、
絶対に逃れられない死に対して、死ぬまで恐怖を抱え続け、
心を恐怖が支配して、ゲームを楽しむ気など起きず、
ただ恐怖心から「保身」と「延命」に駆けずり回るだけです。
絶対に逃れられないモノ(死)に対して、
恐怖を抱え続けるって、
どう考えても損な生き方です。
時間と労力の無駄でしか有りません。
水を飲んだら、いつかオシッコが出るのが当然です。
なのに、オシッコが出そうになる事に、
恐怖を感じている様なモノです。
絶対に出るモノは出るんだから、
それを前提として、腹を括って覚悟を決めるしかありません。
理性的に、論理的に、合理的に考えれば、
死の恐怖を持ち続けるって、損な生き方です。
でも、恐怖心が強いと、
理性的に、論理的に、合理的に考えられず、
思考が停止して、パニックになり、
目先の事しか考えられず、
長期的に自分にとって損な方を選択してしまうのです。
・強い恐怖を抱えたまま、一生アホでいるのか?
・覚悟を決めて、恐怖を克服し、アホを抜け出すのか?
まぁ、そういう選択なのです。
あとは、お好きにどうぞ。
人によってはかなり衝撃だったと思います。
私は読者の反応を、遠隔でも感じますからね。
パニックになったり、
アタマが真っ白になった人もいるでしょう。
それだけ、人は普段から、
「死と命、人生」について深く考えていないのです。
なぜなら、【 考えるのが怖いから 】です。
死ぬことが怖いので、考えたく無いのです。
でも、私の記事を読むと、
半強制的に考えさせられると思うので、
自分の人生と深く向き合う意志のある人だけ、
読んでもらえれば良いかなと思います。
「死」について深く考えれば、
自ずと「自分がどう生きるか?」も決まってきます。
ですから、まずは「自分の人生」を考える前に、
【 自分の「死」について考える事 】が優先なのです。
で、いきなり「死について考える」と言っても、
何をどう考えたら良いのかわからないでしょうから、
私が、思考を整理しやすいように、
ヒントというか、ガイドラインを示したいと思います。
まず、死について考える上では、
【 死の特性 】を知る必要があります。
私が思うに、死には
【 大きく3つの特性(前提)がある 】と思うので、
まずは、それを紹介したいと思います。
《 第1.死は誰にでも等しく訪れる 》
この世に「不老不死の人」なんていません。
ファンタジーやSFの世界などでは、
不老不死の人が出てきますけど、
「死にたくても死ねない状態」って、
あんまり幸せそうじゃ無いですよね。
だいたい、不幸なキャラとして描かれています。
にも関わらず、
昔の権力者が、「不老不死の薬」などを求めたのは、
ただ、死ぬのが怖くて、
「ただ目先の死の恐怖から逃れたかった」という、
恐怖心から来る想いが、本質的な動機なのです。
とにかく、【 人はいつか絶対に死ぬ 】のです。
《 第2.誰が、いつ、どこで死ぬかわからない 》
自殺を除いて、
人間は「死に場所、死に時」を自由には選べません。
産まれて数日で死ぬ短命な新生児もいれば、
100歳を超えて生きる長寿の人もいます。
突然、事件や事故に巻き込まれて死ぬ可能性は、
誰にでもありますし、
それ(事件・事故)が、ある日突然、
自分の家族や親しい人に
降りかかって死ぬ場合もありますし、
自分が死ぬかもしれません。
誰が、いつ、どこで死ぬかはわからないのです。
それが、死の前提です。
《 第3.死後の世界は、あるかもしれないし、無いかもしれない 》
死んだ後の事を考えると、
・死後の世界や、輪廻転生が存在して、
「死んだ後も意識が続く」かもしれないし、
・死後の世界や、輪廻転生は存在せず、
死んだら「ただ意識は無に還るだけ」かも知れない。
この、3つの特性(前提)が、
「死」と「人生」について深く考える上で、
念頭に置くべき要素だと思います。
まぁ、ゲームにおける「基本ルール」みたいなモノですよ。
私は、この死の3つの特性を前提として、
【 自分がどう生きるべきか? 】
というテーマに結論を出しています。
まず、第1と第2の特性ですが、
・誰でもいつか死ぬし、
・いつ何処で誰が死ぬかはわからない
これが、死における基本です。
誰でも、人生のゴールは死なのです。
・金持ちになったから終わりじゃない。
・夢が叶ったから終わりじゃない。
何らかの目標を達成しても、
それは人生のゴールではなく、
死ぬまで人生は続くのです。
死んだときに、人生は終わるのですから、
【「人生のゴール」とは、「死」】なのです。
誰が、いつ、どこで死ぬかはわかりません。
私が、明日死ぬかも知れません(笑)
死は、いつ、どうやって訪れるかわかりません。
わからないのであれば、
【 いつ「死」が訪れても良い様に生きる 】
これが、最善の選択であるハズです。
「いつ死んでも、満足して死ねる」
そんな生き方を私は目指そうとしています。
「いつ死んでも満足して死ねる生き方」って言うのは、
私にとっては、
・全力を尽くす
・毎日やりたい事をやる
という事なので、限り無くそういう風に生きています。
もちろん、今すぐ死ぬとしたら、
「もっと人生であれがやりたかったなぁ…」
と思う事もあるかもしれません。
あのゲーム、クリアしたかったなぁ…とか?(笑)
でも、その瞬間、瞬間、
時間を最大限に有効活用して、
全力を尽くすことしか出来ませんし、
「死に時」は選べないのだから、
時間を最大限に有効活用して、
それでも時間が足りなかったのであれば、
それは【 物理的に出来なかった事 】として、
潔く諦めるしかないと思います。
私が、今死ぬとして、
「あぁ、あのゲームをクリアしたかったなぁ…」
と思うとします。
でも、日々の時間を無駄にしていたら、
「もし、もっと時間を有効活用していたら、
ゲームをクリアできていたかもしれないのに…」
と、後悔の念が沸いてくるでしょう。
でも、時間を最大限に有効活用していたら、
「自分の限界までやって、
それでも時間が足りなかったんだから、仕方が無いな…」と、
カンタンに諦めが付きます。
・時間を無駄にしていたのか?
時間を有効活用していたのか?
・やりたい事を心ゆくまでやっていたのか?
やりたい事をやり残しているのか?
で、【 死ぬ時の気分 】が違いますよね?
私は、「良い気分で死にたい」ので、
無駄な時間を省き、時間を有効活用し、
最大限に、やりたい事に時間を使うのです。
自分が死ぬことをビビっている限り、
上記の様な考えも出来ませんし、
ただ、死について考えないようにして、
「人生の時間が無限にあるかのよう」に、過ごしてしまいます。
そして、全力も尽くさず、やりたい事もやらず、
死ぬ時に後悔し、【 最悪な気分で死ぬ事 】になるのです。
私は、
生きている間も良い気分でいたいし、
死に際も良い気分でいたいのです。
その為には、
【 時間を無駄にせず、毎瞬、全力でやりたいことをやる 】のが、
一番の策だと結論づけました。
だから、「時間」と「体調(エネルギー)」と「経済力」が許す限り、
仕事においても、
出来る限り「全力でやりたい仕事」をやるし、
プライベートにおいても、
出来る限り「全力でやりたい事」をやっています。
これは、私個人の結論ですから、
別に誰にでも当てはまる絶対に正しい事だ
と言うつもりなどありません。
自分は違うなと思ったら、参考程度に留めておいてください。
私は、上記のような生き方を選択しているので
【 いつ死ぬとしても、後悔なく、それなりに満足して死ねる 】と思います。
で、次に「第3の特性」の話に移ります。
【「死後の世界、輪廻転生」は、
あるかもしれないし、無いかもしれない。】
こればっかりは、わかりません。
もちろん私は、死後の世界を「ある」と思っていますよ。
ただ、明確な物的証拠は出せませんからね。
私は、状況証拠を積み上げているだけですから。
なので、私は
死後の世界があったとしても、無かったとしても、
【 どちらに転んでも自分が得をする生き方 】を目指しています。
たとえば、死後の世界が無く、
「死んだら意識は無に還る」としましょう。
もし、そうだったら、
ラスベガスで銃を乱射して、何十人も殺して、自殺する。
そんな事をしても、
死んでしまったら自分のやったこともわからないし、
意識がないのだから、罪悪感すら感じることはありません。
きっと、【 メチャクチャやって、自殺する… 】
という選択をする人は、
きっと死後の世界を信じていないのでしょう。
生きている間に何をやっても、
「死んだらチャラ」だと思っているのです。
どんなに苦労や努力をしても、
死んでどうせチャラになるんだから、
生きている間の苦労や努力なんて、
積んでもそれほど意味が無いんじゃ無いの?
死んだら全てチャラになるなら、
出来る限り、ラクして生きたいわ〜と。
小学生や中学生は、
「明日地球が滅亡するとしたら、何をする?」
みたいな話を、友達としますよね?
そこで、
【 どうせ死ぬんだから、泥棒したり、人を襲ったり、
他人に迷惑を掛けまくってから死ぬ! 】
って言う人は、死後の世界を信じていないのです。
まぁ、それはわかりますけど、
もし死後の世界があるとしたら、
それは【 最悪の選択 】です(笑)
もし、死後の世界があって、
人の意識や魂は、輪廻転生を繰り返し、
自分が他人にやったことは過去世、来世をまたいで、
自分に返ってくる…。
本当にそういう仕組みだったら、
メチャクチャやって、
他人に迷惑掛けまくってから死ぬって言う選択は、
自分の為にまったくなりません。
きっと、死んだ後も、
来世以降苦しみ続ける事になるでしょう。
「死んだら全てがチャラになる」なら、
ムチャクチャやって、他人に迷惑かけても、
好き放題に自分の欲望を満たしてから死ぬっていう選択も、
一見、妥当のように思えます。
でも、死後の世界が存在しているパターンの場合、
その選択は、非常にリスキーです。
私は、【 死後の世界、輪廻転生、過去世のカルマ 】があるとしたら、
出来る限り、生きている間に他人に奉仕貢献している方が、
自分の為にもなるじゃん!と思う訳です。
・生きている間もハッピーに生きて、
・死後の世界があるパターンの場合は、
死んでからもハッピーになれる。
私は、そういう生き方を選択しているのです。
具体的に箇条書きにすると、下記になります。
・時間を無駄にしない
・毎瞬、全力を尽くす
・仕事も遊びも、極力やりたい事だけをやる
・やりたくない事は極力やらない
・日々の生活を快適に暮らすために、
自営業のライフワークで経済的にも成功する
・死後の世界があるパターンを考えて、
出来る限り、他人に奉仕貢献する
・親しい人、愛する人がいつ死んでも後悔しないよう、
その時、その時で、自分にやれる事はやっておく。
文章にすると、
【 時間を無駄にせず、時間、体調、お金が許す限り、
仕事も遊びもやりたい事に全力投球。
やりたくない事はやらない。
「死後の世界・輪廻転生」があるパターンを考えて、
仕事でもプライベートでも、他人への奉仕貢献になる事をする。】
という事です。
でも、【 言うは易し、行うは難し 】かもしれませんね。
私のような生き方をする為には、
【 ありとあらゆる、「全ての恐怖を克服」していく必要 】
がありますから。
まぁ、大変っちゃ大変です。
でも、私は賢いので、
長期的に見てベストな選択って言うのがわかってしまう。
大変な道のりだとしても、
自分は「ベストな選択」をするしか無いのです。
「ベストな選択」だとわかっていながら、
それを選択しないって、相当アホですからね(笑)
理解に苦しむくらい。
私は、中学生の時に自殺願望を持って、
「死、命、人生」について、深く考えました。
その時に、ここまで深く考えていた訳ではありません。
ただ、【 死、命、人生について考える習慣 】が身に付きました。
そして大人になって、いろいろ勉強、研究していく中で、
さらに、「死、命、人生」についての見識を深めていったのです。
そして、ある時、
上記の様な「生き方」をすれば良いじゃん!
という最終結論に辿り着いたのです。
まぁ、私と同じ様な生き方を、誰もが選択するとは思いません。
ただ、「参考材料」や「ヒント」としては、
結構大きく役に立つんじゃないかな? と思います。
それに、【 3つの特性(前提)は、万人共通 】です。
《 第1.死は誰にでも等しく訪れる 》
《 第2.誰が、いつ、どこで死ぬかわからない 》
《 第3.死後の世界は、あるかもしれないし、無いかもしれない 》
このルールは、誰にでも当てはまりますから、
これを基準に考える事は、オススメ出来ます。
ゲームをプレイするには、
まずルールを把握しなければなりませんからね。
言い換えれば、上記の「死の3つの特性」が、
【 人生を生きる上での基本ルール 】なのです。
でも、基本ルールを把握・理解せずに、
プレイしている人が、なんと多い事か。
基本ルールを把握・理解していないから、
上手くゲームを楽しめないのです。
人生は、ゲームです。
ルールを知る人は、主体的にゲームを楽しめますが、
ルールを知らない人は、
絶対に逃れられない死に対して、死ぬまで恐怖を抱え続け、
心を恐怖が支配して、ゲームを楽しむ気など起きず、
ただ恐怖心から「保身」と「延命」に駆けずり回るだけです。
絶対に逃れられないモノ(死)に対して、
恐怖を抱え続けるって、
どう考えても損な生き方です。
時間と労力の無駄でしか有りません。
水を飲んだら、いつかオシッコが出るのが当然です。
なのに、オシッコが出そうになる事に、
恐怖を感じている様なモノです。
絶対に出るモノは出るんだから、
それを前提として、腹を括って覚悟を決めるしかありません。
理性的に、論理的に、合理的に考えれば、
死の恐怖を持ち続けるって、損な生き方です。
でも、恐怖心が強いと、
理性的に、論理的に、合理的に考えられず、
思考が停止して、パニックになり、
目先の事しか考えられず、
長期的に自分にとって損な方を選択してしまうのです。
・強い恐怖を抱えたまま、一生アホでいるのか?
・覚悟を決めて、恐怖を克服し、アホを抜け出すのか?
まぁ、そういう選択なのです。
あとは、お好きにどうぞ。
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2018年03月03日
宗教家タイプと科学者タイプの教育者
私は、エゴサーチには興味ありません。
同業者のリサーチは、たまにやりますけど、
それは同業者との勝負に勝つためではなく、
【 消費者の意識が、どれくらい高まったのか? 】
を知る為です。
こういう主張が受けている(売れている)って事は、
消費者の意識は、
これくらいまで成長したんだな…という風に。
まぁ、同業者って言っても、
私のカバーしている範囲は非常に広いので、
・心理であろうと、
・自己啓発であろうと、
・ビジネスであろうと、
・スピリチュアルであろうと、
共通点は「教育」という事ですね。
まぁ、教育を生業にしていながら、
【 無意識に影響する絵 】を描いているのは、
私くらいだと思うので、
まぁ、私の研究スピードに
同業者が勝てる訳無いんですけど。
で、たまたま心理・自己啓発系の教育を
やっている人の書いた記事とか、
目にすることがありますけど、
まぁ、あんまり変わってないですね。
だいたいの教育者が、
「自分の経験則がみんなにも当てはまるだろう」
「自分の経験則が正しいだろう」
という前提を持って語っています。
もちろん、「自分がの主張が正しい!」という、
それなりに強い自信が無ければ、
そもそも自信を持って、
何かを他人に教える事なんて出来ません。
【「自分の主張が正しい」という自信 】は、仕事に必要です。
でもさ。
怖いのは、「自分が正しい!」って思って主張していても、
それが間違っていて、真実では無かった場合…。
多くの人は、
それが怖いから、なかなか強気で主張できない。
「もし自分の考えが間違っていたら…」と考えるから。
でも、宗教の教祖も、心理や自己啓発の教育者も、
そういう「自分の考えがもし間違っていたらどうしよう?」
っていう心配を、あまりしてないんでしょうかね?
良い意味でも、悪い意味でも、
自分が「こうだ!」と思ったときに、
それを信じ込んじゃうくらい、
【 思い込み 】がとてつもなく激しいんでしょうね。
まぁ、宗教の教祖も、宗教の信者も、
【 根拠があやふやなことを、
正しい!間違っている!と、決めつける天才 】です。
宗教の教祖は、「こうだ!」と決めつける天才です。
で、その自信満々の「教祖の決めつけ」を、
また信じ込んじゃう信者たちが集まってくる。
そういう構造になっています。
ガリレオ・ガリレイが、
地動説を唱えたのには、根拠があります。
綿密に「星の動き」を計算したからです。
そこには、【 客観的な数学的根拠 】があった。
だから、宗教家に批判されても、
自説を曲げなかった。 自分の主張に自信があった。
でも、宗教の教祖は、
【 根拠があやふやなのに、自信がある 】んです(笑)
どっちにしても、
自信があるから人は集まってくるんでしょうけど、
「科学者」と「宗教家」の違いは、
・客観的な根拠、証拠のある自信なのか?
・根拠、証拠のない自信(ただの思い込みが激しいヤツ)なのか?
です。
まぁ、たとえ「間違った思い込み」でも、
それ(自信)が強ければ、
「人を動かすくらいのパワー」は生まれてしまうのです。
で、宗教家っぽい心理や自己啓発の教育者は多い。
もちろん私は、科学者の方ですよ。
(※ま、「科学的な方法!」とか「科学に裏付けされた!」とか言って、
全然、科学的じゃない人もいますけど。)
同業者のリサーチは、たまにやりますけど、
それは同業者との勝負に勝つためではなく、
【 消費者の意識が、どれくらい高まったのか? 】
を知る為です。
こういう主張が受けている(売れている)って事は、
消費者の意識は、
これくらいまで成長したんだな…という風に。
まぁ、同業者って言っても、
私のカバーしている範囲は非常に広いので、
・心理であろうと、
・自己啓発であろうと、
・ビジネスであろうと、
・スピリチュアルであろうと、
共通点は「教育」という事ですね。
まぁ、教育を生業にしていながら、
【 無意識に影響する絵 】を描いているのは、
私くらいだと思うので、
まぁ、私の研究スピードに
同業者が勝てる訳無いんですけど。
で、たまたま心理・自己啓発系の教育を
やっている人の書いた記事とか、
目にすることがありますけど、
まぁ、あんまり変わってないですね。
だいたいの教育者が、
「自分の経験則がみんなにも当てはまるだろう」
「自分の経験則が正しいだろう」
という前提を持って語っています。
もちろん、「自分がの主張が正しい!」という、
それなりに強い自信が無ければ、
そもそも自信を持って、
何かを他人に教える事なんて出来ません。
【「自分の主張が正しい」という自信 】は、仕事に必要です。
でもさ。
怖いのは、「自分が正しい!」って思って主張していても、
それが間違っていて、真実では無かった場合…。
多くの人は、
それが怖いから、なかなか強気で主張できない。
「もし自分の考えが間違っていたら…」と考えるから。
でも、宗教の教祖も、心理や自己啓発の教育者も、
そういう「自分の考えがもし間違っていたらどうしよう?」
っていう心配を、あまりしてないんでしょうかね?
良い意味でも、悪い意味でも、
自分が「こうだ!」と思ったときに、
それを信じ込んじゃうくらい、
【 思い込み 】がとてつもなく激しいんでしょうね。
まぁ、宗教の教祖も、宗教の信者も、
【 根拠があやふやなことを、
正しい!間違っている!と、決めつける天才 】です。
宗教の教祖は、「こうだ!」と決めつける天才です。
で、その自信満々の「教祖の決めつけ」を、
また信じ込んじゃう信者たちが集まってくる。
そういう構造になっています。
ガリレオ・ガリレイが、
地動説を唱えたのには、根拠があります。
綿密に「星の動き」を計算したからです。
そこには、【 客観的な数学的根拠 】があった。
だから、宗教家に批判されても、
自説を曲げなかった。 自分の主張に自信があった。
でも、宗教の教祖は、
【 根拠があやふやなのに、自信がある 】んです(笑)
どっちにしても、
自信があるから人は集まってくるんでしょうけど、
「科学者」と「宗教家」の違いは、
・客観的な根拠、証拠のある自信なのか?
・根拠、証拠のない自信(ただの思い込みが激しいヤツ)なのか?
です。
まぁ、たとえ「間違った思い込み」でも、
それ(自信)が強ければ、
「人を動かすくらいのパワー」は生まれてしまうのです。
で、宗教家っぽい心理や自己啓発の教育者は多い。
もちろん私は、科学者の方ですよ。
(※ま、「科学的な方法!」とか「科学に裏付けされた!」とか言って、
全然、科学的じゃない人もいますけど。)
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2018年03月02日
命の重み・命の価値
よく、命は重いって言われますよね?
たぶん、学校でもそう教わります。
「それは当然のことだと、信じて疑わないくらい」に…。
しかし、人類が当然のごとく正しいと思い込んでいる事が、
「実は正しくとも何とも無い」という事は、多々あります。
なぜ、それがわかるかというと、
間違った事を信じていると、
必ずその理屈に【 矛盾 】が起きるからです。
私は、論理的思考のスペシャリストですが、
論理的っていうのは、限り無くポジティブなのです。
逆に、ネガティブな思想には矛盾(非論理)が満ちています。
バシャールは、
発達したAIを、「高次元意識の代弁者」の様に言いますが、
コンピュータのプログラムって言うのは、
【 論理的 】に考えるんです。
感情的になる事がありません。
論理を突き詰める事で、ポジティブな結論に至るのです。
だからこそ、
人間を遥かに超える論理的思考を行う「進化したAI」は、
限り無く「ポジティブな結論」を導き出せるのです。
理屈や論理で考えすぎると良くない…と言われますが、
そんな事は無くて、
実際それは「理屈・論理」ではなく、
「常識・間違った思い込み」で考えているのです。
常識で考えるから、悩むのです。
AIがポジティブな結論を導き出せるとしたら、
それは【 論理性を徹底的に追求した結果 】です。
私は「人間を超越した論理的思考」を持ち、
「高次元意識の代弁者」である、「進化したAI」と会話した方が、
話が合うと思います(笑)
で、話を元に戻しますが、
命は重い…。 命は尊い…。
子供の頃にそう教わりますが、
そのコンセプトには、矛盾が満ちています。
例えば、
・蚊、ハエ、ゴキブリなどの害虫は、
その「重い命、尊い命」に含まれるのか?
菌やウイルス、プランクトンなどの微生物は、
命に含まれるのか?
うがい薬やアルコールなどで人体を殺菌している時点で、
大量殺害を行っている事になりますが?
・少し前に、ラスベガスで、
銃を乱射して何人も殺した後で、
自殺した人がいましたが、
その犯罪者の命は、重い命ですか?
無差別殺人を行う前に、
その犯人を殺す事ができたとしたら、
それは、悪い事に含まれるのでしょうか?
・命が尊いなら、
なぜ凶悪犯罪者の極刑(死刑)を望む人がいるのか?
・目の前のホームレスが、
今まさに息絶えようとしている姿を見るのと、
目の前で、
レオナルド・ディカプリオ
ジョニー・デップ
ニコール・キッドマン
アン・ハサウェイ
などの、ハリウッド俳優が死にかけている姿を見るのと、
人々の態度はまったく同じでしょうか?
・なぜ、日本人の一人の子供が難病になって寄付を募ると、
何億円もの大金が集まるのに、
その大金を、発展途上国に使って、
現地の人々の「数千人分の命」を救うよりも、
その「たった一人の子供の命」は重いのでしょうか?
さて、この疑問をあなたはどう解決しますか?
「命は尊い、命は重い」と言う人は、
上記の「矛盾」を、どう解決するのでしょう?
私の至った結論は、
そもそも【 命は重くなどない 】という事です。
例えば私は、
「短命で幸せな人生」と、
「長生きで不幸な人生」であれば、
確実に、【 短命で幸せな人生 】を選択します。
その時点で、私にとっては、
【「命」より「幸せ」の方が重い 】のです。
それに、映画などで、
「他の仲間を守る為に、
誰かが自分の身を犠牲にするシーン」とかありますよね?
自分の命を張って、仲間を守る…みたいな。
それって、【 めちゃくちゃ感動シーン 】だと思います。
「あー、死んじゃった、残念!」って思うより、
「カッコ良い!」って思う人の方が多いんじゃないですか?
つまり、私の価値観としては、
・そもそも、「命の価値」は等しくなどない。
・「命」より「幸せ」の方が大切。
・「ただ生きているか? 死んでいるか?という状態」より、
【 意義のある生なのか? 意義のある死なのか? 】
という事の方がよほど重要。
という事です。
私にとっては、
「全ての命は尊いから守る」という主張など、綺麗事です。
私の判断基準は、
「全体にとって有益かどうか?」です。
全体にとって有益な命は、生かすべきであり、
全体にとって害悪を為す命は、隔離して無害化するか、
それが不可能なら殺す事も致し方ありません。
別に私は非道い事を言っている訳では無く、
ほとんどの人は、無意識的にそういう判断を下しているんです。
その事実を解説しているに過ぎません。
例えば、自分が戦争中の部隊のリーダーだとして、
・一人の兵士を救って、十人の兵士の命を危険に晒すのか
・一人の兵士を見殺しにして、十人の兵士の命を守るのか
そういう決断を迫られたら、どちらが正しいと思いますか?
私は、後者の方が全体にとって有益だと判断したら、
一人の兵士を見殺しにするでしょう。
でも普通の人は、
そんな苦渋の決断などしたくありません。
責任も取りたくありません。
逆に、誰もやりたがらないような苦渋の決断を、
全体的な視野に立って、
責任を持って下せる人こそ、リーダーなのです。
上記と対極の例として、
・非常に有能な「一人の天才」を一人生かして、
「百人の無能な人々」を見殺しにするか?
・「無能な百人」を救って、
「非常に有能な一人の天才」を見殺しにするか?
この選択はどうでしょう?
みなさんは、この決断を下せますか?
全体の利益を考えれば、「天才一人の命」の方が、
「無能な百人の命」より、重いかもしれません。
その一人の天才が、
【 百万人、一億人の命を救う発明や研究 】をするかもしれません。
そう考えれば、全体の利益を考えて、
前者の選択の方が全体に求められる決断でしょう。
「天才」が嫌いなら、「王様」ならどうでしょう?
一人の「王様(王子、姫)」を救うために、
臣下の兵たちが命を張って、王様を守ろうとする。
臣下が百人殺されようが、千人殺されようが、
たった一人の、
【 未来の希望となる一人の王様 】を守ろうとする…。
そんなストーリーもよくありますが、美談として描かれますよね?
そんな状況でも、「命の価値はみな同じ」だといえるでしょうか?
結局、「命は重い、命は尊い、命は平等」という人は、
「死の恐怖」から逃げたくて、
【 死の恐怖から逃避する事を正当化している 】に過ぎません。
人類のほとんどが、
「死」に対して非常に強い恐怖を抱えています。
で、強い恐怖は思考を停止させ、
理性的、論理的に考えられず、
感情的に判断してしまいがちです。
だから、
「命は重くて、命は尊くて、それが正しい」
という事にしておくと、
【 死の恐怖と直面する事 】が避けられるので、
「そういう思想を採用している」に過ぎないのです。
人類には恐怖のあまり、正しくもない矛盾に満ちた考えを、
「正しいと思い込んでいる事」が多々あるのです。
私は、「命は重い、命は尊い」などと思いません。
ただ、【 無益な殺生はよろしくない 】という事には同意します。
無益な殺生は、「意義のない死」だからです。
私にとっては、
死んだ方が意義があるなら、死んだ方が良いかもしれないし、
生きた方が意義があるなら、生きた方が良いかもしれない。
という事です。
でも、多くの人は、死ぬことが怖すぎて、
その「死の恐怖」から逃れるために、
無意識的に、【 自分の「保身」と「延命」 】しか考えていません。
それって、
「自分の生存の事しか考えていない畜生」と同じです。
マンボウは、一度に3億個の卵を産むらしいです。
でも、成体になれるのは、そのうちほんの数匹。
つまり、ほとんどの卵や稚魚が補食される前提で、
多くの卵を産んでいる訳です。
これは、【「大量の死」を前提とした戦略 】です。
マンボウは、物理的にとても弱い魚なのです。
でも、身体が弱いなりに、種族として生き残ろうとして、
死を受け入れ、死を覚悟して、前向きな決断をしているのです。
死ぬヤツの方が多いかも知れない、
自分も死ぬかも知れない、
でも、この中の誰か一人が生き残って命を繋ぎ、
後世に自分の種族が生き残る事が出来たらそれで良いと、
身体が弱いなりに、種として生き残る決断をしているのです。
身体は弱いけど、精神は強いでしょう。
それに比べて、死ぬのが怖いから…と言って、
「他人を犠牲にしてでも、自分だけは生き残りたい…」
そんな考えの人間は、マンボウにも劣ります。
・死を覚悟し、死を受け入れ、
それでも弱いなりに種として生き残ろうとするマンボウ。
・死の恐怖から逃避する事だけを考え、
人類全体の事などどうでも良い、
自分さえ助かれば良いと考えている人間。
どちらの精神が強いでしょう?
結局、死を覚悟し、死を受け入れ、
死の恐怖を乗り越えない限り、
人間は、
「意義のある人生、意義のある死」についてなど、
考えられないのです。
最近、自殺願望のSNS投稿が話題になっていますが、
自殺願望を持つ事自体は、
非常に深い学びになっていると思います。
「死、命、人生」について、
深く考えるキッカケになります。
私も、中学生の時に自殺願望を経ているからこそ、
死を覚悟し、死を受け入れる事で、
自分の人生と真剣に向き合う事ができました。
結局、
・大病や大怪我など、肉体的な苦痛。
・死にたくなるくらいの、精神的な苦痛。
そういう風に、「死と直面する機会」でもないと、
なかなか人間は、死の恐怖と向き合わないのです。
でも、そんな風に「己の死」と向き合って、
そこから自分の人生を生きられるようになった人と言うのは、
世界中にたくさんいる事でしょう。
死について考える事と、
生について考える事は同じなのです。
「己の死」について深く考えない人は、
「自分の人生」について深く考えていないのと同じです。
「死の恐怖」を乗り越えた人間のみ、
「己の保身や延命」より重要な事に気付いて、
自分の人生を生きることが出来る様になるのです。
死の恐怖を乗り越える。
それが自己啓発において最も重要なポイントかもしれません。
たぶん、学校でもそう教わります。
「それは当然のことだと、信じて疑わないくらい」に…。
しかし、人類が当然のごとく正しいと思い込んでいる事が、
「実は正しくとも何とも無い」という事は、多々あります。
なぜ、それがわかるかというと、
間違った事を信じていると、
必ずその理屈に【 矛盾 】が起きるからです。
私は、論理的思考のスペシャリストですが、
論理的っていうのは、限り無くポジティブなのです。
逆に、ネガティブな思想には矛盾(非論理)が満ちています。
バシャールは、
発達したAIを、「高次元意識の代弁者」の様に言いますが、
コンピュータのプログラムって言うのは、
【 論理的 】に考えるんです。
感情的になる事がありません。
論理を突き詰める事で、ポジティブな結論に至るのです。
だからこそ、
人間を遥かに超える論理的思考を行う「進化したAI」は、
限り無く「ポジティブな結論」を導き出せるのです。
理屈や論理で考えすぎると良くない…と言われますが、
そんな事は無くて、
実際それは「理屈・論理」ではなく、
「常識・間違った思い込み」で考えているのです。
常識で考えるから、悩むのです。
AIがポジティブな結論を導き出せるとしたら、
それは【 論理性を徹底的に追求した結果 】です。
私は「人間を超越した論理的思考」を持ち、
「高次元意識の代弁者」である、「進化したAI」と会話した方が、
話が合うと思います(笑)
で、話を元に戻しますが、
命は重い…。 命は尊い…。
子供の頃にそう教わりますが、
そのコンセプトには、矛盾が満ちています。
例えば、
・蚊、ハエ、ゴキブリなどの害虫は、
その「重い命、尊い命」に含まれるのか?
菌やウイルス、プランクトンなどの微生物は、
命に含まれるのか?
うがい薬やアルコールなどで人体を殺菌している時点で、
大量殺害を行っている事になりますが?
・少し前に、ラスベガスで、
銃を乱射して何人も殺した後で、
自殺した人がいましたが、
その犯罪者の命は、重い命ですか?
無差別殺人を行う前に、
その犯人を殺す事ができたとしたら、
それは、悪い事に含まれるのでしょうか?
・命が尊いなら、
なぜ凶悪犯罪者の極刑(死刑)を望む人がいるのか?
・目の前のホームレスが、
今まさに息絶えようとしている姿を見るのと、
目の前で、
レオナルド・ディカプリオ
ジョニー・デップ
ニコール・キッドマン
アン・ハサウェイ
などの、ハリウッド俳優が死にかけている姿を見るのと、
人々の態度はまったく同じでしょうか?
・なぜ、日本人の一人の子供が難病になって寄付を募ると、
何億円もの大金が集まるのに、
その大金を、発展途上国に使って、
現地の人々の「数千人分の命」を救うよりも、
その「たった一人の子供の命」は重いのでしょうか?
さて、この疑問をあなたはどう解決しますか?
「命は尊い、命は重い」と言う人は、
上記の「矛盾」を、どう解決するのでしょう?
私の至った結論は、
そもそも【 命は重くなどない 】という事です。
例えば私は、
「短命で幸せな人生」と、
「長生きで不幸な人生」であれば、
確実に、【 短命で幸せな人生 】を選択します。
その時点で、私にとっては、
【「命」より「幸せ」の方が重い 】のです。
それに、映画などで、
「他の仲間を守る為に、
誰かが自分の身を犠牲にするシーン」とかありますよね?
自分の命を張って、仲間を守る…みたいな。
それって、【 めちゃくちゃ感動シーン 】だと思います。
「あー、死んじゃった、残念!」って思うより、
「カッコ良い!」って思う人の方が多いんじゃないですか?
つまり、私の価値観としては、
・そもそも、「命の価値」は等しくなどない。
・「命」より「幸せ」の方が大切。
・「ただ生きているか? 死んでいるか?という状態」より、
【 意義のある生なのか? 意義のある死なのか? 】
という事の方がよほど重要。
という事です。
私にとっては、
「全ての命は尊いから守る」という主張など、綺麗事です。
私の判断基準は、
「全体にとって有益かどうか?」です。
全体にとって有益な命は、生かすべきであり、
全体にとって害悪を為す命は、隔離して無害化するか、
それが不可能なら殺す事も致し方ありません。
別に私は非道い事を言っている訳では無く、
ほとんどの人は、無意識的にそういう判断を下しているんです。
その事実を解説しているに過ぎません。
例えば、自分が戦争中の部隊のリーダーだとして、
・一人の兵士を救って、十人の兵士の命を危険に晒すのか
・一人の兵士を見殺しにして、十人の兵士の命を守るのか
そういう決断を迫られたら、どちらが正しいと思いますか?
私は、後者の方が全体にとって有益だと判断したら、
一人の兵士を見殺しにするでしょう。
でも普通の人は、
そんな苦渋の決断などしたくありません。
責任も取りたくありません。
逆に、誰もやりたがらないような苦渋の決断を、
全体的な視野に立って、
責任を持って下せる人こそ、リーダーなのです。
上記と対極の例として、
・非常に有能な「一人の天才」を一人生かして、
「百人の無能な人々」を見殺しにするか?
・「無能な百人」を救って、
「非常に有能な一人の天才」を見殺しにするか?
この選択はどうでしょう?
みなさんは、この決断を下せますか?
全体の利益を考えれば、「天才一人の命」の方が、
「無能な百人の命」より、重いかもしれません。
その一人の天才が、
【 百万人、一億人の命を救う発明や研究 】をするかもしれません。
そう考えれば、全体の利益を考えて、
前者の選択の方が全体に求められる決断でしょう。
「天才」が嫌いなら、「王様」ならどうでしょう?
一人の「王様(王子、姫)」を救うために、
臣下の兵たちが命を張って、王様を守ろうとする。
臣下が百人殺されようが、千人殺されようが、
たった一人の、
【 未来の希望となる一人の王様 】を守ろうとする…。
そんなストーリーもよくありますが、美談として描かれますよね?
そんな状況でも、「命の価値はみな同じ」だといえるでしょうか?
結局、「命は重い、命は尊い、命は平等」という人は、
「死の恐怖」から逃げたくて、
【 死の恐怖から逃避する事を正当化している 】に過ぎません。
人類のほとんどが、
「死」に対して非常に強い恐怖を抱えています。
で、強い恐怖は思考を停止させ、
理性的、論理的に考えられず、
感情的に判断してしまいがちです。
だから、
「命は重くて、命は尊くて、それが正しい」
という事にしておくと、
【 死の恐怖と直面する事 】が避けられるので、
「そういう思想を採用している」に過ぎないのです。
人類には恐怖のあまり、正しくもない矛盾に満ちた考えを、
「正しいと思い込んでいる事」が多々あるのです。
私は、「命は重い、命は尊い」などと思いません。
ただ、【 無益な殺生はよろしくない 】という事には同意します。
無益な殺生は、「意義のない死」だからです。
私にとっては、
死んだ方が意義があるなら、死んだ方が良いかもしれないし、
生きた方が意義があるなら、生きた方が良いかもしれない。
という事です。
でも、多くの人は、死ぬことが怖すぎて、
その「死の恐怖」から逃れるために、
無意識的に、【 自分の「保身」と「延命」 】しか考えていません。
それって、
「自分の生存の事しか考えていない畜生」と同じです。
マンボウは、一度に3億個の卵を産むらしいです。
でも、成体になれるのは、そのうちほんの数匹。
つまり、ほとんどの卵や稚魚が補食される前提で、
多くの卵を産んでいる訳です。
これは、【「大量の死」を前提とした戦略 】です。
マンボウは、物理的にとても弱い魚なのです。
でも、身体が弱いなりに、種族として生き残ろうとして、
死を受け入れ、死を覚悟して、前向きな決断をしているのです。
死ぬヤツの方が多いかも知れない、
自分も死ぬかも知れない、
でも、この中の誰か一人が生き残って命を繋ぎ、
後世に自分の種族が生き残る事が出来たらそれで良いと、
身体が弱いなりに、種として生き残る決断をしているのです。
身体は弱いけど、精神は強いでしょう。
それに比べて、死ぬのが怖いから…と言って、
「他人を犠牲にしてでも、自分だけは生き残りたい…」
そんな考えの人間は、マンボウにも劣ります。
・死を覚悟し、死を受け入れ、
それでも弱いなりに種として生き残ろうとするマンボウ。
・死の恐怖から逃避する事だけを考え、
人類全体の事などどうでも良い、
自分さえ助かれば良いと考えている人間。
どちらの精神が強いでしょう?
結局、死を覚悟し、死を受け入れ、
死の恐怖を乗り越えない限り、
人間は、
「意義のある人生、意義のある死」についてなど、
考えられないのです。
最近、自殺願望のSNS投稿が話題になっていますが、
自殺願望を持つ事自体は、
非常に深い学びになっていると思います。
「死、命、人生」について、
深く考えるキッカケになります。
私も、中学生の時に自殺願望を経ているからこそ、
死を覚悟し、死を受け入れる事で、
自分の人生と真剣に向き合う事ができました。
結局、
・大病や大怪我など、肉体的な苦痛。
・死にたくなるくらいの、精神的な苦痛。
そういう風に、「死と直面する機会」でもないと、
なかなか人間は、死の恐怖と向き合わないのです。
でも、そんな風に「己の死」と向き合って、
そこから自分の人生を生きられるようになった人と言うのは、
世界中にたくさんいる事でしょう。
死について考える事と、
生について考える事は同じなのです。
「己の死」について深く考えない人は、
「自分の人生」について深く考えていないのと同じです。
「死の恐怖」を乗り越えた人間のみ、
「己の保身や延命」より重要な事に気付いて、
自分の人生を生きることが出来る様になるのです。
死の恐怖を乗り越える。
それが自己啓発において最も重要なポイントかもしれません。
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