2018年03月

2018年03月31日

麻酔中毒者

自分の本心・本音、
潜在意識下の情熱・意志・感情・願望を知るには、
    
とにもかくにも、
【 感じる感覚 】を取り戻さなければなりません。
  
  
あらゆる幼児は、
「感じる感覚」が正常なハズなのに、
  
成長過程において、または社会人になるにつれ、
その「感じる感覚」を閉ざしていくようになるのです。  
  
  
まぁ、「閉じている人間」ばかりと会って会話していると、
自分も知らない間に影響を受けて、無意識的に閉じて行くのです。
  
  
  
先日、人と会っているときに、
「幼児の性質」について語りましたが、 
  
人間というのは、何も意識しなければ、
とにかく「エネルギー消費が少なくて済む方」を選択します。
  
  
幼児が連続して、またはコロコロと、
「自分のやりたい事」をやり続けるのは、
  
やりたい事をやる方が、
【 消費するエネルギーが少なくて済むから 】です。 
  
  
私も、会話や記事などで、
人にメッセージを伝えようとする時には、
  
非常に高い集中力を発揮していますが、
  
それでも、【 やりたい事だから、疲れない 】のです。
  
(※ 私が疲れる理由は、ほぼ邪気・邪念・怨霊の類いの影響)
  
  
私が「自分のやりたくない事」をやろうとすると、
やりたい事の「一万倍」くらいのエネルギーが必要で、
  
実際にやるとなるなったら、極度に疲れてしまいますね。
  
  
だから、やりたくない事に関しては、
他人に頼んだ方が良いのです。
  
  
人間は、「やりたい事」をやる方が、
【 エネルギーの消費が少なくて済む 】のです。
    
  
さらに、「信じる」と「疑う」だったら、 
 
「信じる」の方が、
【 圧倒的にエネルギ−の消費は少なくて済み 】ます。
  
  
それに、疑うためには「情報」が必要です。
  
オレオレ詐欺も、
「オレオレ詐欺って言うのがありますよ!」
  
って、ニュースなどで知るから、警戒する様になるのです。 
  
掛かってきた電話を、疑う様になるのです。
  
  
・騙す人間がいる
・人は真実ばかりを語らない
・巷に出回る情報は本当の事ばかりじゃない
  
そういう情報を得て初めて、
人は「疑うこと」を覚えるのです。
  
  
子供は、そもそも「得ている情報」が少ない訳ですから、
  
親と学校が、「同じ情報」を提供するなら、
もう疑う余地など無いのです。
  
  
だから、一部の例外を除いて、ほとんどの子供は、
  
キリスト教の家庭に生まれたらキリスト教に染まるし、
イスラム教の家庭に生まれたらイスラム教に染まるのです。  
   
(※ 一回何かに染まってから、真っ白に戻すのは大変ですが…)
  
  
学校が、「1+1=2」と教えて、
親も、「1+1=2」と教えたら、
  
それを真実だと思い込みます。 
  
  
学校が、「1+1=2」と教えて、
親が、「1+1=3」と教えたら、
  
あれ? どっちかがウソを付いているのかな?
   
と、初めて【 疑うこと 】を覚えるのです。
  
  
幼児は、
  
・やりたい事をやろうとするし、
・得ている情報が少ない分、何でも鵜呑みに信じてしまう
  
それは、「エネルギーの消費量が少ない」から…。
  
  
これが、【 幼児の性質 】です。
  
  
それで、残念ながら、
  
親や学校から、
  
生きていく為には、  
【 やりたくない事をする方が正しい 】
  
と教育されていき、それをそのまま信じるのです。
  
  
「やりたくない事をやる方が正しい」と教育されると、
「自分の本当のやりたい事 」は邪魔になりますから、
  
そういう気持ち(情熱・意志)を、感じない様にしていきます。
  
  
そして、幼児の時には正常に働いていた感覚を閉ざして、
    
自分の本心・本音、
潜在意識下の情熱・意志・感情・願望がわからない、
  
【 感覚障害者 】に育っていくのです。
  
  
で、感覚障害者になるから、
  
「他人が抱えている苦痛」もわからなくなります。
  
  
自分の「本音・本心・情熱・意志」も感じられないし、
「精神的苦痛・ネガティブ感情・不快感」も感じられません。
  
そういうのを感じないように、麻痺させている状態です。
  
    
言うなれば、
痛覚を麻痺させる為の麻酔を打っている様なモノです。
  
  
ずっと自分の心に麻酔を打って、
「精神的な痛み」から逃げ続けてきているのです。
  
それはまるで、麻酔ジャンキー(中毒者)です。
  
  
で、その麻酔を止めて、
  
幼児の頃と同じような、
「正常な感覚」を取り戻そうとすると、どうなるでしょう?
  
  
今まで麻酔を打って「無視して来た痛み」が、
  
一気に感じられる様になると思いません?
  
  
それが怖いから、麻酔と麻痺を止められないのです。 
  
  
でも、麻酔で痛みを麻痺させている状態は、
  
ハッキリ言って、異常です。
  
  
麻酔を打って麻痺していて、
  
「自分の本心や痛み」を無視するような、
【 異常な感覚 】になっているから、
  
社会の異常(ネガティブ要素)にも気付けないのです。 
  
  
もし異常な情報を見ても、感情移入できずに、
「自分には関係無い事だ」と思うのです。
  
  
私はネガティブな人と会話している時に、
  
相手が私にとって、
すごく不可解な感覚を持っている事があります。
  
それは、【 自分の人生が他人事に思える 】です。
  
  
これぞまさに、【 感覚障害 】でしょう。 
  
  
私は、自殺願望を持っているときも、
自分の持っている感覚はそれなりに正常だったと思います。 
  
  
もともと持っている感覚が鋭敏なのもあると思いますが、
  
感覚が正常だったからこそ、
精神的に激痛を感じていたのかも知れませんし、
  
そこから逃れられなかったのかもしれません。
  
  
だから私は、自分の感覚器官を切断して、
  
【 自分の人生が他人事に思える 】という状態に、
  
私は陥ったことがありません。
  
  
経験が無いから、私にはその感覚がわかりません。
  
  
でも、「自分の人生が他人事に思える」と言っても、 
  
「自分の人生がどうなっても良い」という訳では無くて、
  
そういう人こそ、
実際には、「死に対する恐怖」は誰よりも強い訳です。
  
  
「なんか、自分の人生じゃないみたい…」と言いつつ、
  
頭に銃口を突きつけられたら、
誰よりも「絶対に死にたくない!」と、保身に走るでしょう(笑)
  
  
実際に死に直面することで、
「生きている感覚」が取り戻せるんじゃないですか?(笑)
  
  
「自分の人生が他人事に思える」っていうのは、
  
「痛み」から一時的に逃れるための【 麻酔状態 】です。
  
  
自分の潜在意識は、まったくそんな事思っていないのです。
  
  
その自分の潜在意識の声を遮断しているから、
  
自分自身がわからないし、生きている感じがしないし、
人生も他人事に思えるのです。 
  
  
自分を生きていないのだから、他人事に思えるのです。
  
自分の本音や本心に従って、自分らしく生きていないのだから、
他人事に思えるのです。
  
  
要するに、自分の本音・本心に従わずに、
  
【 保身・延命が動機の、建前で生きている 】という事です。
  
  
建前で生きすぎて、本心がわからなくなっている状態です。
  
それが、【 自分の人生が他人事に思える状態 】です。
  
  
で、「保身と延命の動機」が強い人ほど、 
  
潜在意識下に抱える
「ネガティブ感情と恐怖心」が強いのです。
  
  
強すぎるから、
感じたくなくて麻痺させているのです。  
  
  
「痛み」と向き合うのは怖いかも知れませんが、
とりあえず、その麻痺を止めていかないと、
  
本当は誰よりも強い恐怖心を抱えているのに、
麻痺によってそれを感じないように生きているので、
  
死ぬまでずっと他人事です。  
  
  
で、実際に死ぬ直前になって、自分の本音が少し見えたときに、 
   
【 自分の正体 】を知ることになるのです。
  
  
情熱がわからない、他人事に思える…という人は、
  
感じる感覚を麻痺させて、感覚障害に陥っているのです。
  
  
情熱がわかる事と、精神的な痛みがわかる事は同じです。 
  
  
「痛み」を避けているから、「情熱」もわからないのです。 
  
   
麻酔を切って、
己が実際に抱えている「激痛」と向き合って初めて、
  
自分の本心・本音、
潜在意識下の情熱・意志・感情・願望が理解できるのです。
  
  
つまりは、幼児の頃の正常な感覚を取り戻せる訳です。
 
  
そうして初めて、
ようやく「人間らしく」生きられる様になるのです。
  
  
まぁ、どう生きるかは個人の好みですから、
  
ネガティブに生きたい人は、麻酔を続けてもらって、
  
ポジティブに生きたい人は、
まず自分が麻酔を切りたいかどうか?を感じる事です。


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2018年03月30日

感覚障害と苦痛に耐える許容量

昨日も人と会って、
ポジティブな方向(己の幸せ)に向かいたければ、
    
【「死の恐怖」に立ち向かうより手前に、
 「感じる感覚を高める方」が優先だ 】
  
という話をしました。
  
  
そうしたら、
  
「じゃあ、どうやって感じる感覚を高めれば良いですか?」
  
という質問を受けました。
  
  
もうそれが、「感じる」とういステップを飛ばして
「思考(方法)に逃げている」って事なのです。
  
  
まず、本当に自分が
【「感じる感覚」を高めたい 】と思っているのかどうか?
    
それを「感じる事」からがスタートです。
  
  
他人から、「耳を澄ましてごらん」と言われて、
   
「耳ってどうやって澄ましたら良いですかね?」
   
と、質問している様なモノです。
  
  
「感覚器官を鋭敏にする」という事は、
  
自分がそうしたいと思いさえすれば、
【 身体が自然に反応するモノ 】なのです。
  
  
だから、「耳を澄ましてごらん」と言われて、
  
「耳の澄まし方がわかりません!」という人は、
  
それは、【 小さな音を聞き取る意志が無い 】のです。
   
  
そもそも耳を澄ます意志が無いくせに、
「方法がわからないから、出来ないのも仕方無い…」
  
と、言い訳しようとているのです。
  
  
感覚器官を鋭敏にする為に必要なのは、意志だけです。
  
まぁ、多少は波動的アプローチで、
「感覚を高める為の補助」はできますが、
  
メインとなるのは自分の意志です。
  
  
本人の意志がなければ、補助も無意味なのです。
  
  
潜在意識下の「情熱・感情・意志」をすっ飛ばして、
思考を働かせようとする人は、
  
感情を感じる感覚が麻痺している、
【 感覚障害 】と言っても良いと思います。
  
  
例えば、「知的障害」になってしまうと、
カンタンな事もできなくなりますよね?
  
それと同じように、
  
「感覚障害」に陥ってしまっても、
カンタンな事すら出来なくなります。
  
  
海外に行く気も無いのに、
海外にはどうやって行ったら良いですか?
  
と、平気で方法を質問する訳ですから。
  
  
気持ちがないのに、方法だけ聞いても無駄でしょ?
  
    
「感覚障害」の人は、
「自分の気持ち」がまったくわからなくなっているのです。
  
  
判断基準のベースが、「自分の気持ち」ではなく、
「保身」と「延命」になってしまっているのです。
  
  
気持ちがないのに、方法ばかり追い求める。 
  
それには、生産性が全くありません。
  
  
生産性がないことを、なぜ続けるのか?
  
それは、他人の目を気にしているからです。
  
  
他人から嫌われないように、良く思ってもらえる様に、
  
「自分の気持ちと異なる振る舞い」を、
【 平気でやってしまう癖・習慣 】が身に付いているのです。
    
  
それは、自分の気持ちを蔑ろにする癖・習慣です。
  
自分の気持ちをまったく感じようとしていないから、
わからないのです。
  
  
「死の恐怖」を克服しようとする前に、
  
無意識的に「保身と延命が動機」の行動を取ってしまう、
その「癖・習慣」を徹底的に改める必要があります。
  
  
じゃあ、なぜ「自分の気持ち」を蔑ろにしてまで、
  
「保身と延命」を優先した行動を取るのか?
  
  
人と話していて、解明する事が出来ましたが、
  
それは、【 精神的苦痛 】を極度に怖れているからです。
  
  
自分の気持ちを積極的に感じたり、
  
他人の意向よりも
自分の気持ちを優先して行動しようとすると、
  
【 精神的苦痛 】を伴うことになるからです。
  
  
その精神的苦痛とは、例えば、
  
「潜在意識内に溜め込んだネガティブ感情」であったり、
「他人から激しく責められたりすること」です。
  
  
そういう「精神的苦痛」を避けるために、
  
「自分の気持ちを感じること」にフタをして、
  
さらには、「他人の心証を良くする様な行動」を、
無意識的に選択してしまうのです。
  
  
それこそが、【 保身が動機の行動 】です。
  
  
で、私はね…、
  
  
「精神的苦痛を最小限に抑える方法」は教えられますけど、
  
「精神的苦痛をゼロにする方法」は教えられません。
  
  
幸せになっていこうと思ったら、
絶対に、精神的苦痛は伴います。
   
幸せになる事を諦めても、
言わずもがな、精神的苦痛は伴います。
  
  
どちらにしても、精神的苦痛はあるのです。
  
  
しかし、平和ボケしている人は、
  
その幸せになっていく為に必要な、
「最低限の精神的苦痛」すら、避けようとしてしまうのです。
  
  
それじゃあ、幸せにはなれません。
  
  
で、そういう人はね。 
  
【 そもそもの基準がヌルイ 】んです。
  
  
例えば、格闘技の選手なんて、
本気で殴り合っている訳ですけど、
  
その痛みに耐えています。
  
  
でも、あんまり殴られた事が無い人は、
一発軽く殴られただけでも、
  
無理無理無理! 怖い怖い怖い!
  
と、なってしまうでしょう。
  
  
「激痛」を経験し、知っている人は、
「軽い痛み」ではパニックを起こしません。
  
  
私は、ありとあらゆる精神的苦痛に耐えてきましたから、 
  
ちょっとやそっとの精神的苦痛では、全く動じないのです。
  
  
だからと言って、
別に「死ぬほどの精神的苦痛を経験しろ!」
  
というつもりはありません。
  
  
ただ、自分で経験しなくても、
  
【 他人の苦痛をイメージする 】ぐらいのことは、
やって下さいと言うのです。 
  
  
「他人の抱える死にたくなるほどの苦痛」を知れば、
  
・自分がどれほど恵まれているかわかるし、
・精神的苦痛に耐えるキャパシティも、増えていきます。
   
  
例えば、好き嫌いが激しくて、
食べ物を粗末に扱う子供が居たとしましょう。
  
ピーマンやニンジンを、ゴミ箱に捨てるとか。
  
  
そういう子供には、
  
泥水をすすって、生きるためにハエを食べている様な子供が、
実際に存在している事を、理解させれば良いのです。
  
  
その子の苦痛に比べれば、  
自分の苦痛など、まるで大した事が無い。
  
  
そういう認識になったとき、
「苦痛に耐えるキャパシティ」が増えるのです。
  
  
例えば、金持ちのお嬢様やボンボンには、
吉野家の牛丼を食べたことがない人がいるでしょう。
  
そんな安いモノ食べて大丈夫?とか、
吉野家が何屋さんか知らないという人もいるかもしれません。
  
  
しかし、吉野家の牛丼を、
「たまにしか食べられないご馳走だ!」
  
と思う人も居るのです。
  
  
【 認識の基準 】によって、
  
・目の前にある恩恵が、どれだけ有り難いと感じれるか?
  
・目の前の苦痛が、どれだけ軽いと感じられるか?
  
  
が、変わってくるのです。
  
  
要は、
  
・どれだけ目の前の有り難みを感じるか?
・どれだけ目の前の苦痛を軽いと感じるか?  
  
は、【 本人の認識と基準の違い 】なのです。 
  
  
認識さえ変われば、
今まで当たり前だと思っていた事が、有り難く感じるし、
  
基準が変われば、
今まで逃げ回って避けてきた苦痛が、軽く感じるのです。
  
  
だから、「平和ボケしたヌルイ基準」を持つ人は、
  
どれだけの恩恵を手にしても、有り難みが沸かないし、
ちょっとした苦痛にすら、ギャーギャーと大騒ぎするのです。
  
  
比較しないと何もわからない…と言うことは、
  
以前の記事にも書きましたけどね。
  
  
平和ボケは、明らかに狂った感覚です。
  
狂った感覚だから、
人生でいろいろと問題を起こすのです。
  
  
まともな感覚を持つ人には、問題は起きません。
  
  
まともな感覚になる為には、
  
【 この世界(世間)の標準 】を知る必要があります。
  
  
「商売でお金を稼ぐ事の厳しさ」とかね…。 
  
  
この世界(世間)の標準と、
思いっきりズレた感覚を持っている人が、
  
世間知らずの平和ボケなのです。
  
  
世間には、
  
泥水をすする人もいれば、  
精神的苦痛で自殺する人もいる。
  
  
それを無視しているから、
「世間の標準」からズレていくのです。
  
  
「目の前の恩恵」を有り難く思い、
「目の前の苦痛」を軽く感じるには、
  
自分よりも遥かに恵まれていない、
苦痛に満ちた「他人の境遇」を知り、感情移入すれば良いのです。
    
  
自分でわざわざ経験しなくても、
    
【 他人に感情移入 】することで、
  
視野は広がり、世間を知れて、
苦痛に対するキャパシティも増えます。
  
  
幸せになる為に最低限必要な精神的苦痛すら、
重く感じて極度に怖れているから、
  
無意識的に、「保身の行動」に走ってしまうのです。
  
  
まずは、【 最低限の苦痛を背負い、感じていく覚悟 】が必要です。 
 
  
そうじゃないと、
「他人から嫌われるのが怖い!」っていうチンケな恐怖だけで、
  
もう、身動きが取れなくなってしまいます。
  
  
他人から嫌われた時の「精神的苦痛」を背負う覚悟があれば、
  
「自分の気持ち」を優先できます。
  
  
で、他人から嫌われたときの精神的苦痛って、重い? 軽い?
  
  
それって、毎日死にたくなるほど辛い事があって、
未来に絶望して自殺しようとしている人の精神的苦痛に比べて、
    
どれくらいのモンでしょう?
  
  
平和ボケしている人間は、「重い」と思うでしょうが、
  
自分より遥かに過酷な境遇に居る他人の苦痛を知れば、
「軽い」と思えるでしょう。
  
  
苦痛を「重い」と思うか、「軽い」と思うかは、
    
【 認識と基準の違い 】でしかないのです。
  
  
日本において、
嫌いな食べ物を、無理矢理食べさせられる苦痛もあれば、
  
アフリカで、  
不衛生な環境で、一切何も食べられない苦痛もあります。
  
  
「激しい苦痛」を知る事で、
目の前の苦痛が軽く感じられるのです。
  
  
アフリカで栄養失調になっている子供に感情移入すれば、
  
食べ物の味付けに文句を言って食べられない事が、
どれだけヌルイ苦痛で音を上げているのか?
  
と思いますよ。
  
  
幸せになるためには、
最低限背負わなければならない精神的苦痛が存在します。
  
例えば、潜在意識下のネガティブ感情を解放するときの苦痛などです。
  
  
私はその最低限の苦痛を、「非常に軽いモノ」だと思っています。
  
  
私は、自分でも「死ぬほどの精神的苦痛」を味わってきたし、
世界には、そういう人が腐るほど居る事を知っているからです。
  
  
それに比べたら、
  
私がこれ以上無いってくらいに、
精神的苦痛を最小限に抑える方法を教えている訳で、
  
その最低限すら「重い」と感じるって、 
  
「どんだけ温室育ちなの?」って思います。
  
  
世間知らずだから、
私が最小限に精神的苦痛を抑える方法を教えているのに、
  
その「価値」や「有り難み」もわからないのです。
  
  
だから、先日の記事でも、
  
【 もっと苦しんでいる他人を知った方が良い 】と書いたのです。
  
  
苦しんでいる他人を知らないから、
世間知らずで、感覚がズレていて、
  
現実もスムーズに行かないのです。
  
  
この世界は…、社会は…、
  
実際に【 苦痛だらけ 】なのです。 
  
  
【 苦痛に満ちている 】と言っても良い。
  
(だからこそ、苦痛以上の幸せを実現したい訳ですが) 
   
  
その「世間の標準」を知らないから、世間知らずなのです。
  
  
・自分が恵まれている事にも気づけず、
・ちょっとした苦痛で大きな悲鳴を上げて、
    
そんな、「甘々の態度」で生きている人間が、
この日本には多すぎます。
  
  
私は自分の子供に、
  
「地球で生きるって厳しいぞ! 
 生き方を間違ったら、死にたくなるぐらいの苦痛はあるぞ!」
  
って教えます。
  
  
それが真実だからです。
  
  
この「厳しい世界」で生きていけるように、
  
有り難い事を「有り難い」と思えるように、
ちょっとした苦痛でギャーギャー言わないように、
    
我が子が女児だろうが、男児だろうが、
愛を持って、強くたくましく鍛えます。
  
  
初めから、【 世界の標準、世間の標準 】を教えます。 
  
  
一回甘やかされてその基準に慣れ親しんで、
社会に出た時にいきなり厳しくされるから、
  
拒絶反応が出るのです。
  
  
最初から、世界標準に基づいて厳しくされていたら、 
  
何とも思いませんよ。  
  
  
「それぐらい厳しいのは当たり前だよね」って思います。
  
  
「感情を感じる感覚」を高めて、鋭敏にしていこうと思うと、
  
当然ながら、しばらくは
幸せに必要な「ネガティブ感情」を感じる機会も増えますから、
  
その「ネガティブ感情(精神的苦痛)」に耐えられるだけの、
「キャパシティ、タフさ」が必要となります。
  
  
その「キャパシティ、タフさ」を増やし、高めるには、 
   
世界標準、世間標準を持つ事です。 
  
  
世界中で苦しんでいる人々…、
世界中で死にたくなるほどの精神的苦痛を抱えている人々…、
   
そういう人に感情移入する事です。
  
  
どんな苦痛を抱えているのか? 
  
想像を膨らませ、詳細にイメージする事です。 
  
  
それが、【 世間を知る 】という事です。
  
  
そうすれば、
  
幸せになる為に最低限必要な精神的苦痛などは、
  
屁にしか思わなくなります。


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2018年03月29日

行動は有罪、気持ちは無罪

前回は、「感じる事」について書きました。
  
  
【 人間の潜在意識には、
  
 ポジティブな勢力とネガティブな勢力があり、
 相反する想い、矛盾した想いを抱えている。
  
 だから、葛藤や迷いが生まれ、エネルギーを浪費している。
  
 無意識内をポジティブな勢力に統一する事で、
 無意識内に平和・平穏が生まれる。 】
  
   
これは、先日の記事で説明した通りです。
  
  
で、自分の潜在意識の中で、
「ポジティブな勢力」を強めて行こうと思ったら、
  
  
まず、自分無意識内の、
ポジティブ勢力の想いも、ネガティブ勢力の想いも、
  
どちらも等しく感じて、認めなければなりません。
  
  
例えば、殺人がテーマであれば、
  
自分の無意識内に、
  
「人を殺したい!」という気持ちもあるし、
「人を殺したくない!」という気持ちもあります。
  
その両方の気持ちを感じて、
  
自分が「その気持ち」を持っている事を、
認めてあげなければなりません。
  
  
でも、この世には、
  
【「ネガティブな気持ち」自体を裁いている 】が、
  
多くいます。
  
  
「ネガティブな気持ちなんて、持っちゃいけない!」
  
という風に。
  
  
そして、自分の中に存在している
「ネガティブな気持ち」にフタをして、無視しようとします。
  
それこそ、自分の潜在意識に対して「不誠実な行為」です。
  
  
私は、自分の中に湧いた、どんなネガティブな気持ちも、
ちゃんとその存在を認め、感じます。
  
一度湧いてしまった想いは、
「無かった事」にはできませんからね。
   
   
で、ここで重要な事を言いますけど、
   
「ネガティブな行動」を犯してしまったら罪になりますが、
「ネガティブな想い」を持っている事自体は、罪じゃないのです。
  
  
「殺したいわ〜!」という
殺意、殺人衝動だけでは、罪になりません。
  
実際に「人殺し」をするから、罪になるのです。
  
  
ネガティブな想い自体では、罪になりませんから、
  
だからこそ、
自分の中のネガティブな想いを、いくらでも認めて良いのです。
  
  
ポジティブな意味でも、ネガティブな意味でも、
   
「気持ちだけ」と「実際に行動する」には、
  
【 天地ほどの差 】があります。
  
  
「あの人、できれば助けてあげたいな〜」という気持ちだけと、
「実際に助けるために行動に移す」のとでは、天地の差がある。
  
それと同じように、
  
「人を裏切りたいわ〜」「投げ出したいわ〜」という気持ちだけと、
実際にそうするのとでは、天地の差があるのです。
  
  
ポジティブな意味でも、ネガティブな意味でも、
  
【 気持ちだけ、思っているだけ 】というのは、
大した事は無いのです。
  
  
人間は、「気持ち」が湧いた後に、実際に「行動」するかどうか?
  
「それについて考える」というクッションが存在しています。
    
    
感情のままに行動するのではなく、
  
【 感情 → 思考 → 行動 】
  
というステップになっています。
  
    
感情のままに行動するなら、それこそ動物ですが、
  
人間は、考える事が出来ます。
  
  
だからこそ、「思いとどまる」という選択もあるのです。
  
  
自分の中に存在する「ネガティブな気持ち」自体を裁いていると、
  
自分の本心を感じないようにして、建前で生きるようになります。
  
  
しかし、「ネガティブな気持ち」は、まったく裁くに値しません。
  
  
むしろ、潜在意識内のポジティブな勢力を強めて行こうと思ったら、
  
自分が抱える「ネガティブな気持ち」を積極的に認めなければならないのです。
  
  
「ネガティブな気持ち」だけでは、罪にならないのに、
  
「気持ち自体」を裁いているから、
逆に、潜在意識内のネガティブな勢力が強まるのです。
  
 
・全てを投げ出したい
・全てから逃げ出したい
・他人に責任をなすりつけたい
・ラクして稼ぎたい
・働きたくない
・他人に養ってもらいたい
・責任を取りたくない 
・お世話になった人を裏切りたい
・舐めた態度の人間にブチ切れたい
・暴力を振るいたい
・他人に苦痛を与えたい
・ワガママに自己中心的に振る舞いたい
  
そんなネガティブな気持ちは、
全て認めなければなりません。
  
  
まず認めなければ、次の【「考える」というステップ 】に進めません。
  
  
【 感じる → 考える 】 というステップです。
  
  
感じなければ、それについて冷静に考えられないのです。
  
  
「感じる」というステップを飛ばして
考えようとしている人は、
  
考えているようで、全く考えられていません。
  
  
やる気が全く無いのに、
  
「どうやったら良いですか?」という、
  
方法を聞きたがったりします。
  
  
それは、
  
「アメリカに行く気が無いのに、
 アメリカにはどうやって行ったら良いですか?」
  
と聞いているのと同じです。
  
  
そんな事をしてしまっている状態が、パニックなのです。
  
  
まったく「やる気が無い」のに、
「方法」だけ考えても無意味な事ぐらいも、
  
わからなくなっているのです。
  
  
人間は、感じてすぐに行動に移るわけではありません。
  
  
「他人を裏切りたい」という気持ちが湧くことと、
「実際に他人を裏切る事」は、全く違う事です。
  
  
もうちょっと、
自分の「自制心」に自信を持った方が良い(笑)
  
  
普通の人は、道端で可愛い人を見かけても、
いきなり抱きついたりしないでしょ?(笑)
  
  
感情的に抱きつきたい気持ちが湧いても、
思考で自制しているからです。
  
  
ネガティブな気持ちが湧いてしまったら、認めてしまったら、
  
「自分が実際にそのような行動をしてしまうんじゃないか?」
  
という不安を感じているのかも知れません。
  
  
でも、そんな事はありません。
  
  
まず気持ちを認めるからこそ、抑圧が無くなり、
  
「ネガティブな衝動」が収まっていくのです。
  
  
自分の「ネガティブな気持ち」を認める事で、
  
【 ネガティブな衝動的な行動 】は減るのです。
  
  
気持ちだけなら罪に問われないのだから、
  
まずは、ネガティブな気持ちを徹底的に認めなければなりません。
  
  
こんなネガティブな気持ちを持っているなんて、
  
自分は本当にクソ野郎だ、クズ野郎だ!って思うかもしれません。
  
  
でも、そんな事はありません。
  
  
気持ちだけなら、誰にでも沸くモノです。
  
  
ネガティブな想いを認めずに逃げたり、
ネガティブな想いを、行動に移したりしていると、
  
実際にクソ野郎、クズ野郎に近づいていくかもしれませんけどね。
  
  
どんな気持ちであっても、【 気持ちは無罪 】なのです。
  
  
行動が、有罪になるのです。
  
  
まず、「気持ちは無罪」って事を分からなければなりません。
  
  
そうしてこそ、
  
【「潜在意識の声」を積極的に感じる事 】が出来ます。
  
  
行動のみならず、気持ちすらも有罪だと思っている人は、
  
自分の潜在意識の声を感じる事が怖くなります。
  
  
だから、感じる感覚を閉ざし、パニックに陥るのです。
  
  
ネガティブな気持ちを、認めれば良い。 
  
感じれば良い、叫べば良い。
  
  
「全部投げ出した〜〜〜〜〜〜い!!!」
  
って、叫べば良いのです。
  
  
それが、ネガティブな気持ちの解放であり、抑圧の解除です。
  
  
叫んでも、実際にそうするのとは別の話ですから。
  
  
気持ちを感じるだけでは、行動しないのです。
  
  
それとも、自分の自制心に自信が無いのでしょうか?
  
  
じゃあ、【 自制心に自信の無い自分 】も、認める必要があります。
  
  
  
結局、人間というのは、
  
自分の事を、【 クズ野郎のクソ野郎だ 】と思いたくないのです。
  
  
そんな人間は、
「生きる価値が無い、幸せになる価値が無い」
    
そんな風に想っているからです。
  
  
自分自身がクズ野郎のクソ野郎なら、
「死ぬべきだ、不幸になるべきだ、苦しむべきだ」と思っているのです。
  
  
それこそ、【 壮大なる勘違い 】です。
  
  
先日も書きましたが、
  
【 悪人こそ、他人の為にも率先して幸せになるべき 】です。
  
  
それに、気持ちだけなら、
クズ野郎でも、クソ野郎でも、何でもありません。
  
完全に無罪です。
  
  
気持ちに罪は無いのです。
  
  
逆に言うと、「あの人を助けたい!」と思っても、
  
実際に助けようとしなければ、
それは全く「人助け」ではありません。
    
  
「感情、思考、行動」というのは、
  
それぞれ、別で独立しているプロセスなのです。
  
  
人間は、ネガティブな想いも、すぐに行動に移す訳でも無いし、
  
ポジティブな想いも、すぐに行動に移す訳ではありません。
  
  
ネガティブな想いも、ポジティブな想いも、
  
「想いだけで行動に移さない人」の方が、【 圧倒的多数 】です。
  
  
ポジティブな意味でも、ネガティブな意味でも、
 
「想いだけ、気持ちだけ」って、大した事が無いのです。
  
  
そして、まずは潜在意識内の、
  
ポジティブな想いも、ネガティブな想いも、
全てを感じ尽くさなければ、
    
次の、【 思考 】というプロセスに入れないのです。
  
  
感じる事を通さずに、考えようとしても、
  
それは、【 的外れ 】でしかないのです。
  
  
感じる事から逃げて、考えようとしても、
  
それは、【 逃避でしか無い 】のです。
  
   
まず、自分の潜在意識下の、
  
ポジティブな想いも、ネガティブな想いも、
全てを感じ尽くす事です。
  
  
そうしてこそ、
次に【 冷静になって考える事が出来る 】のです。
  
  
「自分の感じている事」は、【 全てが本物 】です。
  
  
「他人の幸せを願う自分」も本物だし、
「他人の幸せを叩き壊したいと思う自分」も本物です。
  
  
ポジティブな勢力も、ネガティブな勢力も、
  
そのどちらもが、自分自身なのです。
  
  
その二つの勢力が戦っているから、
  
迷いと葛藤が生まれ、エネルギーを浪費し、
自分の幸せにエネルギーを使えないのです。
  
  
幸せになりたければ、
「ポジティブな勢力」を強めていく必要があります。
  
  
でも、まず初めに、
【 両方の勢力の事を、ちゃんと知る必要 】があります。
  
  
どちらの勢力にも、【 相手と戦う理由 】があるのです。
  
その理由を汲み取ってあげなければなりません。
  
  
で、その理由を知って、考えて、その上で、
  
【 どちらの勢力にチカラを貸すのか? 】
  
という事を、決断する必要があるのです。
  
  
自分の潜在意識の事を、正確に把握していかなければ、
    
【 自分好みの自分 】になって行く事は出来ません。
  
  
前回の記事に続いて同じ結論ですが、
  
とにもかくにも、「感じる事」が必要です。
  
  
どんな気持ちも、罪にはならないのだから、
ちゃんと感じる事です。
  
  
感じる為には、勇気が必要かも知れませんが、
ちゃんと感じる事です。    
  
  
そうしないと、ポジティブな方向には進めません。


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2018年03月28日

感じること

昨日の記事で、「苦痛」について書きました。
  
テレビや新聞・ネットなどで、
いくら激しい苦痛を感じている人たちのニュースを見ても、
  
ほとんどの人にとっては、他人事です。
  
  
「もし自分が当事者だったら…?」 
  
なんて、そんな想像を膨らませる事をしません。
  
  
まぁ、わざわざそんな事をするメリットを、
感じないからでしょう。
  
  
「もし自分が当事者だったら…?」
なんて想像を膨らませても、
    
ただただ、イヤな気持ちがするだけですからね。
  
  
でも、「もし自分が当事者だったら…?」
  
と、想像できる人が増えれば増えるほど、
世界は平和に近づいていくのです。
  
  
「他人の不幸と苦痛」を無視し続けるから、
世界の「混乱」と「苦しみ」は続くのです。
  
  
私は、人類が体験しうる、
もしくは、人類の中でそれを体験している人が実際に居る、
  
「最高の幸せ・快楽」も、「最低の不幸・苦痛」も、
どちらもイメージしているのです。
  
  
別を表現するなら、
【 人類の人生で起こりえる、実現できうる、天国と地獄 】です。
  
  
だからこそ、
「さらなる幸せを求める向上心」も尽きなければ、
    
自分が地獄に堕ちないように、危機感を持っていますし、
出来る限り他人を「地獄の様な状況」から救いたいとも思います。
  
  
  
私は、【「死の恐怖」を克服する重要性 】を、
最近集中的に説いていますが、
  
それを、「どうしてもやりたい!」と言う人もいれば、
「どうしてもやりたくない!」という人も居るでしょう。
  
  
なぜ、「死の恐怖」を克服する必要があるのか?
  
それは、【 自分の幸せの為 】です。
  
  
ですから、「幸せになりたい!」と思っている人でないと、
  
わざわざ、「死の恐怖」を乗り越える動機がありません。
 
  
で、先日の「建前の代償」という記事も書きましたが、
  
・建前の代償
http://growheart.livedoor.biz/archives/52049483.html
  
その中で、「パニックに陥っている人」について書きました。
  
  
パニックに陥っている人は、
「自分の本音・本心」を感じなくなっている訳で、
  
それは言い換えると、「感じる事」を閉ざしたから、
パニックになっているのです。
  
  
「感じる事」を閉ざしているパニックの人は、
  
自分の「幸せになりたい!」という本心すら、
わからなくなっているのです。
  
  
無意識がパニックになっている人は、
  
「自分は幸せになりたい」という本音がわからない。
  
  
そもそも、「幸せになりたい」と感じられないんだから、
  
【 自分の幸せの為に、死の恐怖を乗り越えよう 】とも思いません。
  
  
ですから、パニックになっている人も、そうで無い人も、
  
まず、【 感じる事 】を大切にしなければなりません。
  
  
心理という領域では、
「感じる事」と「考える事」、両方が大切なのです。
  
私はどっちも飛び抜けているから、プロなのです。
  
  
私は、論理的思考のスペシャリストですが、
  
それ以上に、【 感じる感覚 】が優れているのです。
  
  
「感じる感覚」が優れているから、「自分の本音」を偽れないのです。
  
どうしても、「自分の本音」を感じてしまうからです。
  
  
耳が良すぎる人は、どんなに耳を塞いでも、
小さな音が聞こえてしまう様なモノですね。
  
  
そして、人類全体が傾向として、
「感じる事」を閉ざして、「考える事」に逃げているのです。
  
  
他人の不幸なんて、無視したい。
  
それを感じる事は、「とてつもなく苦しい事」だから。
  
  
苦しい事から逃げたいから。 現実や事実、真実から目を背けたい。
  
  
それが、人類の思考パターンです。
  
  
そして、実際に遠くで起こっている事を無視して、
  
「自分の目の前に映る事」しか考えないようにする…。
  
  
世の中全体の事を考えないようにする…。
  
  
ですから、
世界平和なんて願っている人は、あまり居ないのです。
  
  
世界平和を本気で願える人は、
  
【 他人の不幸を、自分の不幸のように捉えられる人 】です。
  
  
「他人の苦しみ」に感情移入できるから、
  
それを取り除こうと努力できるのです。
  
  
  
それで、今から超重要な事を言うんですけど、
  
【「他人」と「潜在意識」って、一緒 】なんです。
  
  
「他人の話」が素直に聞けない人って言うのは、
  
「自分の潜在意識の声」も、素直に聞けない人なのです。
  
  
・「他人にどういう態度を取っているか?」っていうのと、
  
・「自分の潜在意識にどういう態度を取っているのか?」って、
   
【 全く一緒で、共通している 】んです。
   
  
・他人に不正直・不誠実な人は、
 自分の潜在意識に不正直・不誠実な人。
  
・他人の話が聞けない人は、
 自分の潜在意識の声(本音・本心)が聞けない人。
  
・他人の苦しみが感じられない人は、
 自分の潜在意識の苦しみが感じられない人。
  
  
そういう事なのです。
  
  
私は、自分の潜在意識に対して正直です。
  
自分の潜在意識の声もわかります。
  
自分の潜在意識が何を感じているのかもわかります。
  
(※ 他人の潜在意識の声もわかりますが 笑)
  
  
だから、他人に対しても正直だし、
他人が何を感じているのかも、わかりやすいのです。
  
  
他人に嘘を付く人、他人に建前を使う人、他人を偽る人。
  
そういう人は、
【 自分の潜在意識に対しても、同じような態度 】なのです。
  
  
ですから、
他人に嘘を付いていると、自分がわからなくなるのです。
  
  
他人にやったことは、自分に返ってくるのです。
  
  
「自分がわからない」と言う人は、
「他人に嘘を付いているから」です。
  
  
しかし、自分の本心・本音がわからないと、
幸せになる事は出来ません。
  
自分の本心(潜在意識)がやりたい事をやっている時に、
幸せになれるのに、
  
自分の本心がわからなければ、そもそも
やりたい事がわからないし、やりたい事をできません。
  
  
別に、「ウソが絶対悪だ」という訳ではありません。
  
「ウソも方便」って言葉もありますからね(笑)
  
  
この世には、「他人の為に付くウソ」もあります。
  
  
しかし、【 恐怖心から、自分の保身の為 】にウソを付いていると、
  
自分がわからなくなる。
実際には信頼できる他人すら、信頼できなくなってくる。
  
  
そうして、「無意識領域におけるパニック」に陥るのです。
  
  
人類全体が、傾向として
「感じる事」を避けて、「考える事」に逃げている。
    
だから、現代社会はアンバランスで不調和なのです。
  
  
私のメッセージを理解するには、考える事が必要です。
  
  
でも、その前に、
  
「自分の潜在意識が本当はどう思っているか?」を、
明確に感じなければなりません。
  
  
ヴォーカリストの歌を聴くときには、
  
「歌手の意図」なんかよりも先に、
「自分がどう感じるか?」でしょ?
  
  
音楽に対して、
  
・ミュージシャンの意図ばっかり気にしていたら、  
・感じる事より、考える事を優勢にしていたら、
   
全然音楽を楽しめません(笑)  
  
  
ミュージシャンの意図や、正解、不正解は置いておいて、
  
まずは、「自分が心地良いと感じるかどうか?」です。
  
  
その後で、気になった人は、
この曲を作ったミュージシャンの意図はどうなんだろう? 
  
という事を考え始めます。
  
  
潜在意識の声を感じられなければ、人は幸せになれないし、
そもそも、幸せになりたいという気持ちにすら、気付けません。
  
そんな人は、わざわざ「死の恐怖を乗り越えよう」などと、
思わないでしょう。
  
  
まず、自分の潜在意識の、
【「幸せになりたい」という声 】に気付く事。
  
  
それが、「死の恐怖」に立ち向かう手前で絶対に必要です。
  
  
自分の潜在意識の声に気付くには、
  
自分の「感じる感覚」を研ぎ澄ましていく事です。
  
  
しかし、「感じる感覚」を研ぎ澄ましていくと、
  
潜在意識が抱える、膨大なネガティブ感情をも、
同時に感じていく事になります。
  
  
普通の人は、それがイヤなので、
感覚を閉ざし、【 感じないまま 】を選択しているのです。
  
  
・膨大なネガティブ感情を乗り越えて幸せになるか?
  
・それは、大量の脂肪を燃焼させて、痩せたいのか?
   
  
という事に、似ています。
  
  
別に、太っている事が悪いと思っていませんし、
太っている方が良いという価値観があるのも知っていますから、
  
これは例えだと思って下さい。
  
  
自分は、めちゃくちゃ太っているのです。
  
膨大な脂肪を燃焼させなければ、痩せることはできません。
  
  
自分は、大量のネガティブ感情を抱えているのです。
   
「それを感じる感覚」を研ぎ澄ませていかなければ、
【 自分の幸せになりたいという気持ち 】にすら気付けません。
  
  
太ったままでいるのも、努力して痩せるも自由。
  
ネガティブ感情を抱えたままでいるのも、
ネガティブ感情を吐き出していくのも自由。
  
  
自分の感覚を研ぎ澄ませようとすると、
同時に膨大なネガティブ感情を感じる事になるので、
  
自分の感覚を研ぎ澄ますこと自体が、非常に怖いことでしょう。
  
  
だから、最初に
  
自分の心をありのままに感じるための【 勇気 】がなければ、  
何も始まりません。
  
  
  
他人と潜在意識に対して、ウソと付き続ける人生か?
  
他人と潜在意識に対して、正直に付き合っていく人生か?
  
  
自分好みの方を、選んで下さい。


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2018年03月27日

死と苦痛の関係

昨日は弟子に会って、
「恐怖の克服」に関する相談に乗っていましたが、
  
また、「死の恐怖」を克服していく上で、
役に立つ話を閃きました。
  
  
私にとっては、ごく自然にやっている事なのですが、
  
私にとっては自然すぎるので、
「この習慣が大事なんだ!」と気付くには、 
  
他人の相談に乗って、
「どこで躓いているか?」を知って、
    
その解決手段を考えるのが一番です。
  
  
私にとって、他人の相談に乗っている時というのは、
  
「良い教え方・伝え方」を閃く為の、有益な機会なのです。
  
  
私は、何度も書いている通り、
中学3年生の時に自殺願望を抱きました。
  
毎晩、自宅マンションの最上階から地上を眺め、
飛び降りるかどうか?迷っていたのです。
   
   
別に、イジメられていた訳ではありません。
  
  
寝ることも遊ぶことも断って「受験勉強」をしていたので、
そのストレスが非常に大きかったのと、
  
もうひとつの理由が、「正義」です。
  
  
当時の自分は、「己の正義」に従って生きていました。
  
まぁ、今もですけど。
  
  
で、当時は「ルールを守ることが正義」だと信じて、
  
自分自身もルール(校則)を守ることを重視し、自分を縛り、
他人がルールを破るときには、悪者として裁きまくっていました。
  
  
それが、「良い事」だと信じて疑っていませんでした。
  
  
しかし、先生もクラスメイトも、私の味方をしませんでした。
  
真面目に、「己の正義」に従って生きているのに、
むしろ、「悪者扱い」される自分が居て、
  
【 良い事をしようとしている人間が、不幸になる世の中 】
  
に、絶望したのです。
  
  
それから、学校に行きたくなくなりました。
  
  
でも、親は学校に行かせようとするし、
それも非常に大きなストレスでした。
  
  
受験が控えている大事な時期に、
私のそれまでの世界観は、崩壊してしまったのです。  
  
  
何も「やる気」が無くなって、でも「勉強ができない事」も怖かった。
  
受験に失敗したら、「人生お先真っ暗」だと思っていたからです。
  
  
で、不登校児になっても、
高校に進学しない事も怖かったので、一応受験はしたんですが、
  
受験する学校のランクを落としても、それでもその学校に落ちたのです。
  
  
今思えば、きっと「内申点」が相当低かったんでしょうね(笑)
  
  
まぁ、期末テストの点数がそれほどだったのもあるでしょうし、
  
先生から見れば、
私はクラスメイトと揉め事を起こす問題児に映っていたでしょうから。
  
  
まぁ、「滑り止め」は合格したんですが、第一志望には落ちて、
  
また相当落ち込んで死にたくなりました(笑)
  
  
   
それで、弟子から、
  
「どうやって自殺を思いとどまったんですか?」
  
と聞かれました。 
   
  
まぁ、自分が死んだら親が悲しむっていうのと、
  
当時、好きな女の子がいて、
  
その子はどう思うだろう? とか、
その子にもう会えなくなるな…とか、 
  
  
自分が飛び降りたら、

・自分の死体を見て、第一発見者はどんな反応をするだろう?
・学校ではどんな風に知らせられるんだろう?
・自分の葬式ってどんな感じだろう?
  
とか、
そんな事を考えているうちに、飛び降りれませんでした。
  
  
で、非常に長かったですが、これは「前置き」です(笑)
  
  
当時の自殺願望を抱いている自分は、
「死んだ方がマシだろう」と思うくらいに、
  
布団の中にいても、息を吸うだけでも、
「耐えがたいほどの精神的苦痛」を感じていたのです。
  
  
それで、何回も言っている様に、  
今生きている人類70億人も、いずれみんな死ぬんです。
  
  
大抵の人間って、「みんな一緒」が好きでしょ?
  
  
例え、「やりたくない事」でも、「無意味」だと思っていても、
  
・みんなが学校に行くから、自分も行く
・みんなが受験勉強するから、自分もする
・みんなが就職活動するから、自分もする
  
そんな感じで、生きてるじゃないですか?
  
  
でも、「みんなと一緒に死ぬ」のは、イヤなんですね(笑)
  
他人がみんな死んでいくとしても、自分だけは死にたくない(笑)
  
  
「どないやねん!」 ですよ(笑)
   
   
それぐらい人間は、「死ぬ事」だけはイヤがるのです。
  
  
でも、自殺願望を抱いている人って言うのは、
  
そんな【「死ぬのがイヤ」を軽く上回るほど 】の、
  
強大な精神的苦痛を感じているのです。
  
  
そんな【 死ぬより辛いほどの苦痛 】を感じている人が、
この世の中には、非常に数多く存在しています。
  
  
「死ぬより辛い苦痛」を感じている人にとっては、
  
死ぬ事は、【 救い 】に思えるのです。
  
  
前にも言いましたが、
  
自分が、ドラム缶にコンクリ詰めされて、海に沈められた。
  
それでも死なずに生きていたら、最悪です。
  
  
ドラム缶にコンクリ詰めされて、
それでも自分が生きているときに、天の使いがやってきて、
    
「殺してやろうか?」って言われたら、
  
「お願いだから殺して下さい!」って感じでしょ?
  
  
死を怖れている人は、
   
「お願いだから、私を殺して下さい!」って思うほどの、
肉体的苦痛・精神的苦痛を抱えている人が、
  
この世に多く存在しているのに、
その人たちの境遇について、知ろうともしていません。
  
  
【 この世には、人生には、
 「死ぬより辛い苦痛が存在する」】
  
これも、事実です。
  
  
死を怖れる人は、
  
その「事実」を理解していないのです。
  
  
死ぬより辛い苦痛が存在しているのであれば、
  
死が「救い」になる事だってある訳です。
  
  
精神的苦痛の場合は、さきほど説明したとおりですが、
  
  
肉体的苦痛だったら、拷問されたりもそうですし、
  
大きな病気になって、激痛に苦しんでいるのに、
その病気は治る見込みがまったく無い…、
  
  
そんな時が、「死んだ方がラクになれるし、マシだ…」
  
と思うシチュエーションでしょう。
  
  
この世界には、この日本には、
  
「死んだ方がマシだ!」と本気で思えるくらいの、
肉体的苦痛、精神的苦痛に耐えている人が、たくさん居るんです。
  
  
  
明日学校に行ったら、
クラスメイトから拷問級のイジメを受けるとわかっているのに、
  
親から「学校に行け!」と言われる学生とか…。
  
  
だいたい、自殺したい人って言うのは、
「逃げ場」が無い人なんです。
   
誰も相談できる人がいないし、話し相手がいても、
自分の気持ちをわかってもらえていないのです。
  
  
  
そんな人たちの抱える苦痛に比べたら、
  
私のブログを読んだくらいで、ギャーギャー騒いでいるのは、
  
医者から注射(ワクチン)を打たれて、
被害者意識を感じて泣き叫んでいる、小学生と変わりません。
  
  
要は、考えが「ヌルすぎる」んですよ。
  
  
考えがヌルすぎるから、
  
ちょっとした苦痛でもギャーギャー騒ぐし、
自分が死ぬ事も、オシッコちびるぐらいに怖いのです。
  
  
平和ボケしている人たちは、
もっとこの世の「苦しんでいる人たち」の事を知った方が良い。
  
  
私は、この世の「苦しんでいる人たち」と、
「死んでいく人たち」に感情移入しています。 
  
  
それが、私の習慣です。
  
  
例えば、映画、マンガ、アニメ、ゲーム…、
  
何を見ても、誰か死んじゃうでしょ?
  
  
登場人物が死なない物語なんて、
「児童向けの物語」ぐらいじゃないですか?
  
  
私は、物語をみて、
  
苦しんでいる人、死んでいく人が出てきたら、
  
・どのように苦しいのか? どれくらい苦しいのか?
・死に際して、何を感じ、何を考えているのか?
  
という事を、事細かにイメージします。
  
  
例えば、ジャンヌ・ダルクは、火あぶりの刑になったらしいですが、
  
「自分の身体が燃やされていく感覚ってどんなんだろうな?」
「どれくらいの恐怖や苦痛を感じるんだろう?」
  
という風にです。
  
  
それを私は、物語の人が死ぬシーンに触れる度に、
何度も、何度も、何度も、何度もしています。
  
  
それは、言い換えれば、
  
【 自分が死ぬ時のシミュレーションをしているのと同じ 】です。
  
  
さらに他の言い方をすれば、
  
私は、【 自分が死ぬイメージトレーニング 】をしているのです。
   
  
それを、これまで人が死ぬシーンを見る度に、
何万回もやってきているから、
    
死ぬ覚悟くらい、できるのです。
  
  
それが、死をビビっている人と、私の習慣の差です。
  
  
人と同じモノ(物語)を見ても、
  
そこから濃い学びを得て、何かを吸収する人もいれば、
そうしない人もいるのです。
   
   
そして、
   
【 苦しんでいる人たちに対する想像力 】が欠如しているから、
    
人類は、他者に対して冷たい振る舞いをしているのです。
  
  
日本人は、苦しんでいる隣人に対する共感能力が足りません。
  
  
例えば、ラスベガスで「銃の乱射」がありましたが、 
そこに自分が居て、自分の隣の人が殺されたらどうですか?
  
何を感じますか?
  
  
・「人はいつ死ぬかわからない」とか、
・「生きている事は当たり前じゃ無い」とか
・「この世の中は何かおかしいんじゃないか?」とか、
  
いろいろ、感じたり考える事はあるでしょう?
  
  
イギリスやドイツでも、
自動車で人混みに突っ込むテロがありますけど、
  
自分の親しい人が轢き殺されたらどう思います? 
  
  
自分の職場の同僚が、
包丁を振り回す無差別殺人で殺されたらどう思います?
  
  
自分が直接目にしたら、そういう事を感じるのに、
「ニュースとして見ただけ」では、何も感じられないのです。
  
それが、【 想像力の欠如 】です。
  
  
想像力というより、「想像(イメージ)する意志」ですね。
  
  
私は、遠い国で起こっている事でも、
  
その場に自分が居たら…?
被害に遭うのが自分や親しい人だったら? と想像して、
  
「当事者意識」を持つことができます。
  
  
平和ボケしている日本人には、そういう発想は無いでしょう。
  
  
「目の前が平和」だったら、
「全世界が平和だ」と、どえらい勘違いしているのです。
  
もしくは、他国でテロや無差別殺人が起こっても、
自分には一切関係の無い、「対岸の火事」です。
  
  
自分の目の前が平和でも、
  
まさに今この瞬間、
「もう死んだ方がマシだ!」というくらいの、
  
激しい肉体的苦痛・精神的苦痛を抱えている人が、
世界中にゴマンと存在しているのです。
  
  
だから、現在の私自身の生活は至って平和ですけど、
  
【 この世の中はオカシイし、狂っている 】と思えるのです。
  
  
  
今、死にたいぐらいの精神的苦痛を感じている人に対して、
  
私は、非常に良い経験をしているなと思います。
  
  
それは修羅場ですけど、
  
修羅場をくぐるから人は強くなるし、平和ボケも治ります。
  
  
私も、自殺願望を経験し、
それを乗り越えて本当に良かったと思っています。
  
  
過去の「苦痛に耐えた自分」を、
最大限に賞賛し、賛辞を送りたい。
  
  
死を怖れている人は、
  
【 この世には死ぬより辛い苦痛が存在する 】
  
この事実も、潔く認めて頂きたいと思います。
  
  
【 死ぬより辛い「苦痛」や「絶望」】が存在するなら、
  
死ぬ事は「救い」にもなるのです。
  
  
それが、【 安楽死 】というヤツです。
  
  
「死ぬ事が救いになり得る」と思ったら、 
  
死に対するイメージも、
少しはポジティブになってバランスが取れるでしょう。
  
  
自分の人生でそこまでの苦痛を感じたことが無いのであれば、 
 
「死ぬほど苦しんでいる他人、死んでいく他人」に
  
【 感情移入 】する事です。
  
  
そうしたら、
  
【 今の自分が「どれだけヌルい感じ」で生きているか? 】
   
って事も、客観的にわかるでしょう。


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2018年03月26日

建前の代償

心理のメカニズムというのは、
基本的に非常にシンプルです。
  
  
ですが、
  
人間の無意識内に
ネガティブな観念、感情がまみれている時には、
  
非常に複雑な問題を抱えることになります。   
  
  
私が、他人の相談に乗ったり、助言をしている時は、
医療で言うと、手術をしている様なモノです。
  
医師が、人の身体をメスで開いて腫瘍を取り除くように、
私も、人の無意識内のネガティブをえぐり出します。
  
  
【 無意識下のネガティブな観念や感情が強い人間 】
 
というのは、(まぁ、大半の人間の事です。)
   
常に相反する矛盾した気持ちを抱え、葛藤していて、
エネルギーを浪費し、疲弊してしまっています。
  
  
同じモノを見て、同じ事に遭遇したときも、
   
・逃げたい、逃げたくない
・食べたい、食べたくない
・やりたい、やりたくない
  
そんな、相反する気持ちを抱えていて、
  
要は、自分がどうしたら良いのかわからなくなって、
パニックになっているのです。
  
  
よく、スピリチュアルの世界で、
【 光と闇の戦い 】って言う表現がありますけど、
  
それは、
  
・世界をポジティブに、より良く変えていこうとする勢力
・世界をネガティブに、現状維持させようとする勢力
   
  
その二つの戦いの事だと思われていますが、
  
まず最初は、【 自分の無意識下の戦い 】です。
  
  
成長過程の人間の無意識内も、
「光の勢力」と「闇の勢力」が戦っているのです。
  
  
私の無意識内は、
  
これまで「闇の勢力」をとことん殲滅してきたので、
完全に「光の勢力」一色です。
  
  
要するに、
無意識内の意志を、【 ひとつに統合・統一 】したのです。
   
ひとつに統合・統一したので、対立は起きません。
  
矛盾した考え、相反する考えもありませんから、
無駄に葛藤して、エネルギーを浪費する事もありません。  
  
だから、私の無意識内は至って「平和」です。
  
  
一人の人間の無意識内で起こっている事は、
人類が起こしている事にも、そっくりそのまま当てはまります。
  
  
なぜなら、
  
個人の意識も、集合意識も、
まったく同じメカニズムで動いているからです。
  
  
例えるならば、
  
一人の人間が無意識内に、
「小さな人類」を飼っている様なモノです。
    
  
個人の無意識内に、
「いろんな考えを持った自分」がいて、
  
考えが統一されておらず、
ネガティブな考えとポジティブ考えが互いに争って、
  
エネルギーを浪費し、疲弊しているのです。
    
  
まるで「独裁主義」と「民主主義」との戦いの様に…です。
    
  
その結果、一人の人間が、
自分の考えを統一できず、混乱してパニックになっているのです。
  
  
この地球で「光の勢力に勝って欲しい」と思うのであれば、
  
まず、自分の無意識下の戦いで、
「光の勢力」に勝たせなければなりません。
  
  
私は、「パニックになっている人」と話すと、
本当に疲れますし、骨が折れます。
  
  
まず、パニックになっている人は、
  
「自分の潜在意識の声」をキャッチする事も出来ないし、
「他人の話」も理解する事が出来ません。
  
  
「自分の心の声」を聞くことと、
「他人の話」を聞くことは、まったく同じです。
  
  
「自分の心の声」がよく聞き取れる人は、
「他人の話」も容易に理解する事が出来ます。
  
  
しかし、パニックを起こして、
「自分の心の声」が聞き取れない人は、
  
どんなにわかりやすい他人の話を聞いても、
何も理解できないのです。
  
  
こういう状態の人を、私は【 重症 】と呼んでいます。
  
まぁ、「重症の人」は多いんですが(笑)
  
  
で、「重症の人に対する手術(相談・助言)」は、
  
私であっても、非常に骨の折れる作業となります。
  
  
私でも苦労するぐらいですから、
「並みのカウンセラー、コーチ」などには、まぁ無理ですね。
  
パニックの人の相手は手に負えないと思います。
  
  
まぁ、並みのカウンセラー、コーチは、
  
相手が無意識下でパニックを起こしているという事も見抜けないし、
  
相手の「建前の反応」に騙されて、
手に負えていないという事すら、自覚できないでしょうけど(笑)
  
  
パニックを起こしている人というのは、
無意識内で「ネガティブな勢力が優勢」なのです。
  
  
ですから、自らの保身と延命のために、
  
いくらでも自分の中にある
「ポジティブな本音」を押さえつけ、偽り、
  
【 無自覚 】に、
自分自身にウソを付き、他人にウソを付きます。
  
  
自分自身も、
ウソを付いている事に自覚がありません。  
  
  
「自覚のないウソ」を見抜くのは、普通の人には難しい事です。
  
私もしばらくの間、騙され続けてきましたから。
  
  
ただ、現在の私は高次元存在と同じように、
  
相手の言葉よりも、
「相手のエネルギー状態」をよく見ているので、
  
「自覚のないウソ」を見抜く事ができます。
  
  
しかし、重度のパニックを起こしている人が、
まともな状態になっていくのは、かなり難しい事です。
  
まず、私の話が非常に通じにくい状態ですからね。
  
「話が通じない相手」に助言して理解させるって、
難しそうでしょ。
  
  
実際、激ムズです。
   
  
ほとんどの人は、パニックに陥ると手遅れでしょう。
  
  
まぁ、私みたいな人間がたくさんいれば、
「救える人数」も多くなるかも知れませんが、
  
優秀な心理のプロは、私を除きほとんど皆無なので、
  
多くの場合、
パニックに陥った人を救う術はほとんどありません。
  
  
それに、パニックの人に助言するのは、
非常にエネルギーを必要とするのです。
  
  
普通に医師に外科手術を依頼するとなると、
  
保険適応外の手術なら、
百万円単位のお金が必要になると思います。
  
   
私による「無意識手術」も、
  
医師の手術と同じくらいに、
高度な技術と集中力が必要なので、
  
私だって、はこぶね倶楽部メンバー以外に依頼されたら、
それくらいはもらって当然だと思いますね。
  
  
でも、パニックの人が、
自分のパニックを治す為に、そこまでお金払えないでしょう?
  
だから、ほとんどの人は助からないと思います。
  
  
パニックに陥った人を「まともな状態」に戻すには、
  
私にとっても非常に骨が折れる事ですし、
何より、【 本人の強い精神力(根性・意志)】も必要です。
  
  
ほとんどの人は、
そこまでやるだけの動機を持っていないので、
  
やはり、一度パニックに陥ると、難しいです。
  
  
じゃあ、【 人はどうやったらパニックに陥るのか? 】
  
  
一度パニックに陥ると難しいのだから、
  
「そもそも、パニックに陥らない」のが一番です。
  
  
で、パニックに陥る人というのは、
  
【 ネガティブな習慣を強化してきた人 】です。
  
  
「習慣の影響力の強さ」は、先日の記事で解説しました。
   
・選択する際の癖・習慣
http://growheart.livedoor.biz/archives/52049383.html
  
  
で、そのネガティブな習慣とは、
  
主に、「恐怖に対するリアクション」です。
  
  
自分の中に恐怖心を発見したときに、
  
ポジティブな方向性を持つ人は、
その恐怖心を一発で仕留めます。
  
しかし、
  
ネガティブな方向性を持つ人は、 
恐怖心を見つけても、見逃しているのです。
  
  
例えば、恐怖心を犯罪者だと思って下さい。
 
そして、自分は警察官です。
  
  
・犯罪者(恐怖)を見つけたときに、速攻ですぐ逮捕するか。
  
・犯罪者(恐怖)と戦うのが怖いから、見逃し続けるのか?
  
  
そういう習慣の違いです。
  
  
恐怖心を見逃し続けると、
  
自分の潜在意識内で、
ネガティブな勢力がどんどん影響力を増していきます。
  
  
そして、「ポジティブな気持ち」を、
どんどん隅に追いやっていきます。
  
  
そうして、恐怖心が心の中を支配すると、
精神力も非常に弱く、脆くなってしまいます。
  
  
そうなると、
もう自分の保身と延命しか考えられません。
  
  
保身と延命が心を支配すると、
  
自分のポジティブな本音・本心がわからなくなり、
「無自覚なウソを付く事」が常習化します。
  
  
それを、私は「本音」に対して、【 建前 】と言っています。
  
  
そして、その場しのぎ
の建前(無自覚のウソ)ばかり連発していると、
    
その習慣が強化されていき、
自分の無意識がどうなっているのか?
  
もうサッパリわからなくなるのです。
  
  
ですから、パニックに陥らない為には、
  
・正直である習慣
 (自分に対しても、他人に対しても両方)
  
・潜在意識の声を聞く(感じる)習慣
 (ネガティブな想いも、ポジティブな想いも両方)     
  
  
この、二つの習慣が必要です。
  
  
正直でないという事は、【 建前(ウソ付き)モード 】なのです。
  
  
で、正直になれない、潜在意識の声が聞けない。
  
そんな人は、
自分の中の【 ネガティブ感情を怖れている 】のです。
  
「後悔の念」や、「罪悪感」から逃げているのです。  
  
  
「正直になる」とは、「潜在意識の声を聞く」とは、
  
無意識下の「後悔」や「罪悪感」も、
【 シッカリ感じる 】という事です。
  
  
おそらく、パニックの人が解放しなければならない、
ネガティブ感情の量は、「発狂するレベル」だと思います。
  
  
「発狂するレベルのネガティブ感情」に、耐えられるかどうかです。
  
  
「ポジティブな道に戻れるなら、
 いくらでも不快感を感じてやる!」
  
という覚悟を持てるのであれば、
まだ、パニックの人が治ることも出来るでしょう。
  
  
そもそも、パニックに陥る前に、
   
予めそういう覚悟を持っていれば、
いちいち大きな苦労をせずに済んでいたのですが。
  
  
まぁ、パニックに陥っているほとんどの人は、
前向きな心自体が、かなり折れているので、
  
そういう「前向きなやる気自体」を持つ事が難しいでしょうね。
  
  
これが、
  
「恐怖から逃げる事」を、
「小さな事だ」と舐めて掛かった代償です。
  
  
恐怖に立ち向かう重要性を、
これまで私は何回言ったかわかりません。  
  
  
それでも、人の話を素直に聞いてこなかった。 
  
自分の心の声も、素直に聞いてこなかった。(感じてこなかった) 
  
自分が恐怖から逃げる為に、建前で生きてきた。
  
自分が恐怖から逃げる為に、自分にも他人にも不誠実だった。
  
  
その代償です。
  
  
その代償が、【 パニック 】です。
  
  
先日の記事で、
  
【 小さな癖・習慣差で、人生に大差が付く 】と言いました。
  
  
・ほんの少しの勇気を強化し続けてきたのか?
  
・ほんの少しの怠け心を強化し続てきたのか?
  
  
一度身に付いたネガティブな癖・習慣を改めたければ、 
 
【 相応の覚悟と試練を乗り越える事 】が必要です。
 
  
それができなきゃ、死ぬまでパニックです。
  
  
死ぬまで、恐怖から逃げ続ける為に、
  
「保身と延命が最優先」で、
  
「自分と他人を偽り続ける不誠実で、
 自分でも何が何だかよく分からない人生」です。
  
  
「パニックに陥った一人の人間」を見れば、
同じようにネガティブな勢力が勝ってしまった人類も、
  
その先どうなるかわかりますね?


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2018年03月25日

悪人こそ、幸せになるべき

人間には、「無意識的な思い込み」が存在していて、
  
それを、「観念」や「信念」と呼びます。
  
  
私は、「観念」と呼ぶ方が好きなので、
「観念」と呼んでいます。
  
  
そして、その観念を大別すると、
  
「○○には価値が無い」というネガティブな観念と、
「○○にも価値が有る」というポジティブな観念がありあす。
  
  
しかし、高い視点から眺めてみると、
【 全てに何らかしらの価値を見いだすことが出来る 】ので、
  
「○○には価値が無い」というネガティブな観念は、
  
間違っていて、矛盾していて、非論理的な、
「勘違いの思い込み」なのです。
  
  
例えば、「人殺し」は悪い事だと思っている人もいますが、
  
戦争では、たくさんの敵を殺せば、
勲章がもらえたりしますし、死刑執行も殺人です。
  
無差別殺人鬼を犯行中に殺したら、
無実の人命を救ったとして、英雄扱いされるかもしれません。
  
  
あらゆる事は、シチュエーション次第で、
「全体に利するポジティブな要素」を含む可能性があります。
  
    
「過去を後悔する事」だって、無価値の様に見えて、
今後の生き方を改める為と思えば、非常に価値のある行為です。
   
  
ですから、
  
「○○には価値が無い」というネガティブな思い込み(観念)は、
非常に短絡的で、視野の狭い思い込みなのです。
  
  
それで、今回は、
  
【 人が絶対に幸せになる事ができないネガティブ観念 】を
2つ紹介したいと思います。  
  
  
一つ目は、「悪人」に対する観念
  
・悪人に価値は無い
・悪人は裁かれるべいだ
・悪人は幸せに相応しくない
・悪人は幸せになってはいけない
  
こういう観念を持っている人は、絶対に幸せになれません。
  
  
「悪人には価値が無い」という観念を持っている人で、
  
「自分は悪人だ」と思っている人は、
そもそも、自分が幸せになれると思っていないし、
  
  
「自分は悪人ではない」と思っている人でも、
  
・自分自身が悪人にならないように…と、
・自分自身の価値を下げないように…と、
  
常に怖れを抱き、緊張してしまっています。
  
  
  
悪人の定義は、人それぞれでしょうが、
  
代表的なのは、
  
ルールを破る人や、利己的な人、
他人に多大な負担や迷惑を掛ける人でしょうね。
  
  
私は逆に、
  
【 悪人こそ幸せになるべきだ 】と思います。 
  
  
だって、
「幸せじゃないから悪い事するんでしょ?」って思います。 
  
それが事実でしょう?
  
  
「自爆テロ」や「無差別殺人」を行う人は、
どう考えても不幸な人でしょう?
  
不幸だから、そういう事をするのでしょう?
  
「幸せの絶頂」に居る人が、
「自爆テロ」や「無差別殺人」すると思います?
  
  
まぁ、絶対に100%とは言い切れませんが、
  
不幸な人ほど、悪い事をする確率は増え、
幸せな人ほど、悪い事をする確率は減るはずです。
  
  
だから、悪人と呼ばれる人々が幸せになれば、
犯罪は減るはずです。
  
  
ですから、私は「悪人の幸せ」をも願います。
  
悪人こそ、幸せになるべきで、
それが世の中全体の為だと思うからです。
  
  
ただ、「幸せを願う」と言っても、
甘やかす訳ではありませんけどね。
  
  
例えば、世の中には私を攻撃する人も居るでしょう。
  
そんなとき、「相手を賢くすること」が、
私にとっての復讐なのです。
  
「極度にアホだから、私にケンカを売るんだろうな…」
と思いますから、
 
相手が賢くなりさえすれば、
自動的に、「自分の思考と行動の浅はかさ」に気付くでしょう。
  
  
そうなれば、私の気持ちも晴れる事になりますし、
  
相手も賢くなった分だけ、
  
今後は自分の幸せの為に、
もっと思考とエネルギーを注げるようになります。
  
  
私を攻撃してきた人間に対しては、
  
相手を賢くすること、相手を幸せにする事が、
私にとっての復讐なのです。
  
  
でも、バカだった人間が賢くなろうとすると、
  
一旦、「過去の自分のバカさ」を、
潔く認めなければなりません。
  
それには、不快感を伴うでしょう。
  
  
「後悔」やら、「惨めさ」やら、いろいろ感じるでしょう。
  
  
私は、他人に対して
その不快感を与える事に、容赦ありません。
    
  
相手が賢くなって、より幸せになっていくために、
【 必要不可欠な通過儀礼 】ですからね。
  
  
私にとって、他人に「必要な不快感」を与える事は、 
   
【 相手を幸せにしたいが為の、愛 】なのです。
   
   
その「改心する為に必要な不快感」を避け続ける人は、
  
ずっとバカで、ずっと不幸のままです。
  
  
まぁ、それはそれで構いませんが、
  
私としては、自分を攻撃してくる人間も含め、
  
【 全ての人間の「幸せ」と「知性の向上」】を願っています。
  
  
実際にそうなれば、悪人も改心して、悪い事を止めますからね。
  
  
一方、「悪人は幸せになっちゃいけない!」
  
なんて思っていると、
  
悪人はずっと不幸だから、
不幸だからこそ、また悪事を積み重ねる事になるのです。
  
  
悪人が悪事を積み重ねる事は、
  
当人の為にもなりませんし、
無実の他人だって、迷惑を被る事になります。
  
  
だから、自分と全体の事を思えば、
  
【 悪人こそ、真っ先に幸せになるべきだ! 】
  
という結論に辿り着くのです。
  
  
  
で、2つ目の「絶対に幸せになれない観念」ですが、
  
それは、【 不幸な人間には価値が無い 】です。
  
  
「自分には価値が無い」と感じたときに、
人は不幸な気持ちになるのです。
  
  
「不幸な気持ちをしている人間に価値が無い」と思っていれば、
  
【 不幸だから無価値 → 無価値だから不幸 → 不幸だから無価値 】
   
という、無限ループにハマってしまいます。
  
  
私は、「不幸な人間に価値が無い」と思いませんし、
   
むしろ、自分は不幸な気持ちに陥っているのに、
そんな時まで他人の幸せを願える人間は、 
   
【 スーパーウルトラ価値のある人間 】だと思います。
  
  
そして、それは私の事です(笑)
  
  
私は、自分が苦しいときにも、他人の事を考えていました。
  
だから、「自分ってスゲェ良いヤツだな」と思えます。
  
  
とにかく、
  
【 幸せになる為には、条件が必要だ 】
  
という観念は、非常にネガティブです。
  
  
実際は、幸せに条件など必要なく、
誰でもすぐ幸せになれるなら、今すぐなった方が良い。
  
それが、自分の為だけでなく、【 他人の為 】でもあるからです。
  
  
まぁ、自分の快楽の為に、
他人を犠牲にするのは良くありませんが、
  
とにかく、
  
【 自分も他人も、限り無く幸せになっても良い 】
  
と思わないと、自分は不幸なままだし、
  
不幸だからこそ、また他人に迷惑を掛けてしまうのです。
  
  
・不幸
  ↓
・他人に迷惑をかける
  ↓
・他人に迷惑をかけたら幸せになっちゃいけない
  ↓
・不幸
  ↓
・他人に迷惑を掛ける
  
  
という、これまた「無限ループ」です。 
  
  
【 不幸な人間にも価値があるし、
  悪人こそ、真っ先に幸せになるべき 】
  
  
私は、昔からそう思っていました。(たぶん、幼少期の頃からです。)
  
だから、23歳の時からこのブログを書き始めたのです。
  
  
【 誰でも、幸せになれば良い 】と思っていたからです。
  
  
「誰でも幸せになれば良い」と思ってるヤツが、
一番幸せになって、
    
「こういうヤツは幸せになっちゃいけない」と思ってるヤツは、
いつまでも幸せになれないのです。
  
  
自分が幸せになるのは、他人の為です。
  
自分が不幸のままで留まる事は、他人に負担を掛ける事です。
  
  
だから、
【 他人の為にも、さっさと幸せになりやがれ 】って事です。
    
   
まぁ、それを選択しないのも、個人の自由ですが。
  
  
それぞれの本人がどうしたいかは置いておいて、
   
私個人的には、
【 全人類の「幸せ」と「知性の向上」】を願っています。


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haxe501 at 15:13|Permalinkclip!

2018年03月24日

今の時代に生きる貴重さ

昨日、人と話していて、
もうひとつ良い話をしたなぁと思うのが、
  
【「今という時代」のレア度(貴重さ)】です。
  
  
例えば、私はこの地球で、
何回くらい転生しているか知りませんが、
  
もし、1000年前の
フランス農家に生まれたとしましょう。
  
  
そしたら、どんな人生を送る事になるでしょう?
  
  
【 毎年、真面目に小麦を作って、そのうち老いて死ぬ 】
  
ただ、それだけだと思います。
  
  
人間が電気を生活に用い始めたのは、
ここ150年くらいの話です。
  
  
ですから、過去1万年くらいの間のほどんど、
人類は電気を使う事なく、生活してきたのです。
  
  
一方、現代はコンピュータもインターネットもある。
  
この事の偉大さは、
「他の時代」と比べなければわかりません。
   
  
みなさんが、縄文時代の縄文人として生まれたら、
  
どんな人生になるか想像してみて下さい。
  
  
・自分たちの食糧を確保することが最優先。
・自分たちの食糧を生産することが最優先。
  
そういう人生ですよ。
  
  
後は、多少のお祭りがあって、
そこでたまに騒ぐくらいじゃないですか?
  
  
「何か大きい事がしたい!」と思っても、
一般の個人には出来ないし、
  
映画もなければ、ゲームもない…、
娯楽なんてほとんど皆無でしょう。
  
  
さらに、近代の時代と比べても、
  
これまでの時代では、何か商売を始めようとすると、
まず初めに「大きな資本(まとまったお金)」が必要でした。
  
  
それが、今はまったく必要ないのです。
  
元出や種銭ゼロでも、商売を始める事が可能な時代なのです。
  
  
これも、パソコンとインターネットのおかげです。
  
  
昔は、「数多くの部下」がいなければ出来なかったような事を、
  
パソコン一台あれば、たった一人の個人にも出来てしまうのです。
  
  
現代という特殊な時代は、
  
昔の「王様」や「金持ち」じゃなければ、
到底できなかったことを、
  
最新のテクノロジーのおかげで、軽く出来てしまうのです。
  
  
昔の「王様」や「金持ち」じゃなければ、  
出来なかった様な大きい事(世界中への情報発信など)が、
  
個人でも出来るし、
  
昔の「王様」や「金持ち」じゃなければ、
楽しめなかった様な娯楽が楽しめてしまうのです。  
  
  
  
パソコンとインターネットがあれば、
  
たった一人の個人でも、
本気になれば世界中に影響を与えられる。
  
元手がゼロでも、商売が始められる。
  
  
そんな時代は、未だかつて無かった訳です。
  
  
政治家が経済を変えてくれると思っている人もいるでしょうが、
  
経済を根こそぎ変えてしまうのは、
政治家ではなく、テクノロジーなのです。
  
  
さらに、今後も
  
・人工知能(AI)
・量子コンピュータ
・フリーエネルギー
  
などの、テクノロジー革命が控えています。
  
  
新しいテクノロジーが実用化されることによって、
さらに、社会の経済は根本から変わっていくでしょう。
  
  
そうなれば、
ますます【「一人の個人」に出来る事 】が増えていくのです。
  
  
例えば、AIを有能な秘書にする事ができれば、
自分はあらゆる雑用から解放されるかもしれません。
  
その分だけ、
さらに有意義な事に時間とエネルギーを使えるのです。
  
  
まぁ、現代の学校では「AIに出来そうな能力」を、
必死に鍛えさせられる訳ですから、
  
【 多大なる時間とお金と労力の無駄 】ですけどね。
  
  
みなさんも、
いろんな時代に転生したことがあると思いますが、
  
現代以外の時代に生まれて、
「何か大きな事がしたい!」と思っても、
  
特に大した事は出来なかったでしょう。
  
  
貧しい農家として生まれたら、
ずっと農業を続けるしか生きる道は無い…、
  
そんな時代です。
  
  
  
しかし、現代という時代は、
  
これまでの時代と比べものにならないほど、
環境が恵まれていて、
   
【 個人が本気になれば、
  いくらでも大きな事が成し遂げられる、
  いくらでも世界に影響を与えられる。 】
  
そんな時代なのです。
  
  
「やりたくても、何も出来なかった時代」から、
  
「やりたければ、何でも出来る時代」になったのです。
  
  
さらに、スピリチュアル的な観点から見ても、
  
現代は【 非常にレアな時代 】となっているのです。
  
  
だからこそ、私は今回の人生は、
  
「人生100回分」くらいのやる気を集めてでも、
【 今回のこの一生に懸けたい! 】と思う訳です。
  
  
地球で何回転生したかわかりませんが、
  
その中で今回の人生こそ、
「他の100回分の人生」を足して合わせた以上に、
  
【 最高に、一番に、思いっきり頑張るべきだ! 】と感じるのです。
  
  
「何でも出来る時代に生きているのに、何もしない」なんて、
  
【 非常に勿体ない 】と思うのです。
  
  
人類史上、
  
【 強い気持ちがあっても、何もできなかった時代 】
の方が圧倒的に長いのです。
  
  
・延々とずっと「食糧の確保」に明け暮れるか、
・権力者として生まれても、「権力争い」や「殺し合い」
   
そんな生活をずっとしてきたのです。
  
  
一方、今の時代は、
無料で「動画」も「ゲーム」も楽しめる時代です。
  
私も含め、あらゆる人々が自分の表現を行い、
無料でコンテンツを提供している人で、溢れかえっています。
  
  
そんな時代は、かつて無かったのです。
  
  
何でもそうですけど、
何かの偉大さを知るには、他と比べなければなりません。
  
他と比べて「希有」だからこそ、「偉大」だとわかるのです。
  
  
他の比較しなければ、
偉大なことが偉大だと、決してわからないのです。
  
決して偉大なことが偉大だとは、認識ができないのです。
  
  
私は己の視野を広げるため、
  
あらゆる情報を積極的に集めて、比較を行います。
  
  
比較をするからこそ、
  
・何が偉大で、何が偉大でないのか?
・何が貴重で、何が貴重でないのか?
  
という事がわかるのです。
  
  
それで、他の時代と比べたときに、
  
現代という時代は、
【 極めて「貴重」で「稀」な時代 】なのです。
  
  
【 極めて「貴重」で「稀」な時代 】に生きているのに、
  
他の時代で生きるのと、同じように生きて良いのでしょうか?
  
  
そういうのを、
  
私は【 極めて稀なチャンスを見過ごす事だ 】と思うのです。
  
  
比較をしないから、視野が狭いままななのです。
  
  
前々回も、
「過去に違う選択をした自分」と「今の自分」を比較する…、
  
・選択する際の癖・習慣
http://growheart.livedoor.biz/archives/52049383.html
  
という事を書きましたが、
  
比較をしなければ、
  
自分の目の前で起こっている事だけしか、
わからないのです。
  
  
比較をするから、
  
「何がすごいのか?」
「何が珍しいのか?」が分かるのです。
  
  
「比較できるほどの情報量」を持っていない人は、
  
【 何がすごいのか? 何が珍しいのか? 】
  
何を見たとしても、サッパリ何もわからない人です。
  
  
だから、珍しいモノを大切にする事すら、出来ません。
  
  
比較を行って、「何がどう違うのか?」
  
それを分析・検証できる人だけが、
  
「偉大さ」や「貴重さ」を、理解する事が出来るのです。
  
  
今の時代で頑張らなければ、
  
死んだ後に、自分の生き方を振り返って、
    
「めちゃくちゃアホだったなー」と、私なら思うと思います。


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haxe501 at 07:34|Permalinkclip!

2018年03月23日

自分の「本音・本心」を知る為の質問

今日、人と話していて、
「良い質問」を思い付きました。  
  
  
【 自分の寿命が、「ピッタリ残り3年間」だと確定したら、
  たった今から死ぬまでの3年間は、どのように過ごしますか?
  
 3年後の死ぬ瞬間までに、
  
 どんな行動をして、何を経験し、何を成し遂げ、
 誰と時間を共有し、どんな思い出を残し、
 死に際して、何を準備しますか? 】
  
  
上記のテーマについて、真剣に考えてみて下さい。
  
  
「明日死ぬ」ってなったら、
時間が無さ過ぎて大して何も出来ませんが、
  
3年間あれば、それなりの事は出来ると思います。
  
  
死について考える事の一番のメリットは、
  
普段エネルギーを奪われている、
「保身と延命について、考えなくて済む」という事です。
  
  
死を怖れる人々は、
  
「保身と延命」に「意識とエネルギー」を注ぎ過ぎて、  
     
・自分の本音は何か? 本心は何か?
・自分が本当にやりたい事は何か?
  
という事が、わからなくなっています。
  
  
「自分がもうすぐ死ぬ」となれば、
  
他人からどう見られるか?など、
気にしていられなくなります。  
  
  
つまり、死と直面することによって、
  
自分の本心や本音がわかりやすくなるのです。
  
  
私が思うのは、
みんな本音や本心に従って生きたら良いのに…
  
という事です。
  
  
でも、自分の死を怖れて、
保身と延命ばかり気になっている人は、
  
「自分の本音や本心」がわからなくなっているのです。
  
  
どれだけ死を怖れようが、
誰でも死ぬし、早いか遅いかだけの違いです。
  
  
誰にでも等しく絶対に訪れる「死」に対して恐怖して、
  
自分の本音や本心がわからなくて、
自分の思い通りに生きられなくて、
自分のやりたい事が出来ないなんて、バカらしいでしょ?
  
どんなに足掻いたところで、ケツ(終わり)は決まってるんだから。  
  
  
どうせ死ぬんだから、自分の思ったとおりに生きて、
死ぬ前にやりたい事をやっておこうって思うのが、
  
合理的な判断です。
  
  
自分が「3年後に死ぬ」となって、
  
・親孝行したい!って言うなら、それが本音です。
  
・海外旅行に行きたい!って言うなら、それが本音です。
  
・楽しい思い出を作りたい!って言うなら、それが本音です。
  
・自分が死んだ後にも残る、
 何かを残しておきたいっていうなら、それが本音です。
  
  
死と向き合うことで、
普段、保身と延命に注いでいるエネルギーを断ち切って、
  
自分の本音と本心を知り、
  
「自分が死ぬ前に本当にやっておきたい事は何なのか?」という事に、
  
想いを巡らせるエネルギーが確保できるのです。
  
  
その思考を巡らせなければ、
  
【 自分が「死ぬ前にやっておきたいこと」】に気付く事も無く、
  
死ぬことになります。
  
  
病気でも、殺されるでも、理由は何でも良いですが、
  
【 残り3年間の後、確実に自分は死ぬ 】
  
  
そういう事態になったとき、
  
「自分は残り3年間を、どのように過ごすのか?」
  
  
そのテーマについて、真剣に考えた人は、
  
「自分の本音・本心・やりたい事」に気づけるでしょう。
  
  
そして、自分の本音・本心・やりたい事に気付いた人は、
  
生き方が変わります。
  
  
付き合う人、仕事、行動などが変わっていくでしょう。
    
  
真剣に考えられない人は、今まで通り何も変わりません。
  
  
ちなみに、私が3年後死ぬってなっても、
  
今と大して何も変わりません(笑)
  
  
毎日、仕事もプライベートも、やりたい事を全力でやるだけです。
  
  
特筆すれば、自分が死ぬのは3年後と決まっていたら、
   
家族が経済的に困らない様に何かしらの準備をするのと、
子供に対する教育カリキュラムを残すくらいですかね。
    
   
それくらいで、後は何も変わりません。
  
  
自分が3年後に死ぬ事を、真剣にシミュレーションしてみてください。
  
そして、残り3年間を、自分がどう生きるか? 考えてみて下さい。
  
  
それは、自分の「本音・本心・やりたい事」に気付くためです。
  
  
自分の人生を真剣に考えられないのは、
  
死を極度に怖れ、
【 保身と延命に意識とエネルギーを奪われているから 】です。
  
  
死を身近に感じる事で、保身と延命に費やすエネルギーを断ち、
  
「自分の生きたい人生」を考える為に、使える様になるのです。


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haxe501 at 22:49|Permalinkclip!

2018年03月22日

選択する際の癖・習慣

みなさんは、
  
「ホームレス」と「大成功者」を分ける要素って、
何だと思いますか?
  
  
私は、【 たった一つの要素の違い 】だなと、結論づけました。
  
  
それは、
  
・「妥協する癖、怠け癖、逃げ癖」が付いているか?
・「妥協しない癖、粘り癖、攻め癖」が付いているか?
  
たった、それだけの違いです。
  
  
同じDNAを持ち、
同じ幼少期の教育を受けたとしても、
  
一方は、「妥協する癖・怠け癖・逃げ癖」が付いた、
一方は、「妥協しない癖・粘り癖・攻め癖」が付いた。
  
  
【 たったそれだけの違い 】で、
  
「ホームレス」と「大成功者」くらいの違いが生まれます。
  
  
人生は、「迷い」と「選択」、そして「分岐」の連続です。
  
  
私の弟子のかいじゅんは、

私の運営する「はこぶね倶楽部」に入るときに、
  
はこぶね倶楽部の会費を払えば、
月末の家賃を払えなくなる…。
  
  
それくらい、経済的に困窮していました。
  
  
そして、はこぶね倶楽部に入るかどうか?

という事について迷っていました。
  
  
でも、はこぶね倶楽部に入る決断をしたおかげで、
今ではあらゆる現実が好転し、
  
収入も、仕事内容も、人間関係も、家族関係も、
あらゆる生活水準が向上しました。
  
  
おそらく、今の本人が過去の自分にアドバイスするなら、
  
「絶対に、はこぶね倶楽部に入った方がいいぞ!」と、
アドバイスすると思います。
  
  
でも、過去当時の自分は、迷っているわけです。
  
なぜか? 
  
  
当時の自分は、「そこまでの違いを生む」と思っていないし、
  
私の提供するサービスも体験したことがないので、
どれくらい信用できるかわかりません。  
  
  
未来が読めないからこそ、
  
今迷っている事で、どちらを選択するのか?
  
【 その選択の差が、どれほど未来に大きな違いを生むか? 】
  
という事が、わからないのです。
  
  
当時は、「小さな違いだ」と思っていた事が、
  
実際にフタを開ければ、「めちゃくちゃ大きな差」になっている。
  
  
そういう事が、人生には多々あるのです。
  
  
人間は、人生で迷います。
  
  
迷う内容は、
  
・「昼飯、何食べようかな?」
 くらいのごく小さな事から、
    
・「誰と結婚するか?」という様な、
 人生を左右するほどの大きな事まであります。
  
  
で、「迷う」って事は、【 甲乙付け難い 】って事です。
  
  
めっちゃラーメンが食べたいときには、
別に「昼飯に何を食べるか?」で迷いません。
  
迷わず、ラーメン屋に行きます。
  
  
そこでは、人生の分岐は生まれません。
    
    
でも、「ラーメンかパスタで迷っている時」は、
  
【 どっちも同じくらい魅力的に見える 】から、迷うのです。
   
  
そして、人間が迷うとき
   
それは、確実に【 人生の分岐 】が生まれているのです。
  
  
Aという選択をする自分もいれば、
Bという選択をする自分も存在するのです。
  
そこで、【 パラレルリアリティの分岐 】が起こるのです。
  
  
みなさんは、今までたくさん迷って来たでしょうし、
私も、たくさん迷ってきました。
  
  
そして、「迷ったときに下した選択の連続・積み重ね」によって、
  
【 今の自分 】が出来上がっているのです。
  
  
同じDNAを持ち、同じ教育を受けたとしても、
  
全く同じ条件の人間だとしても、
  
「迷ったときの選択次第」によって、
その人生に大差が生まれるのです。
  
  
これが、事実です。
  
  
それに、その選択の仕方というのは、
自分の中でパターン化され、強化されていくのです。
  
それが、習慣です。
  
    
人生は「迷い、選択、分岐」の連続ですが、
  
毎回毎回、「新たな気持ち(初心)」で選択できる訳では無く、

特に意識もしなければ、「過去に下してきた選択」と、
【 同じ選択 】を繰り返しやすい訳です。
  
   
ですから、
    
怠け癖、逃げ癖が付いている人は、迷ったときに逃げやすくなり、
粘り癖、攻め癖が付いている人は、迷ったときに攻めやすくなります。
  
  
人生に訪れる分岐の数は、
合計すれば100万回以上あるかもしれません。
  
  
その100万回以上の迷いと分岐を、
  
逃げ癖を持ち、ずっと逃げた人間、
攻め癖を持ち、ずっと攻めた人間…、
  
  
それだけで、「ホームレス」と「大成功者」くらいの違いは、
生まれて当然だと思いませんか?
  
  
ですから、迷った時に選択する際の【 癖・習慣 】によって、
  
人生に大差が生まれるのです。
  
  
で、人間の【 選択の癖・習慣 】というのは、
  
大きく分けて、3パターンあると思います。
  
  
1.諦めて自暴自棄になる(完全な逃げ癖、怠け癖)
   
   
2.苦しくなったときだけ頑張る(怠け癖と粘り癖が半々)
  
(※ マイナスから逃れるモチベーションだけは強い)
  
    
3.苦しくなくても、頑張る(完全な攻め癖、粘り癖)
  
(※ プラスを追い掛けるモチベーションが強い)
  
  
  
全く同じDNAで、全く同じ条件を持った人間だとしても、
  
【 3種類のウチ、大きくどの習慣を持つか? 】で、
  
「ホームレス」と「大成功者」くらいの差が生まれてしまう訳です。
   
   
  
で、現在の人類をチャネリングしてみると、
  
夢や理想を追い掛けられる環境にある中で、
3の癖を持つ人の割合 : 約12%
  
という事です。
  
  
それを、日本人限定にしてみると、
  
夢や理想を追い掛けられる環境にある中で、
3の癖を持つ人の割合 : 約4%
  
となる様です。 

  
  
やっぱり日本人ってダメですね(笑)
  
  
たった一人だけで良いので、
  
私以外に、世の中の為に
本気で頑張ってやろうって人間はいないのでしょうか。
  
私の情報を理解できる中で、3の癖を持つ人間が。
  
  
私の活動に協力してくれるたった一人さえいれば、
日本も変わると思うんですが。
  
  
そのたった一人がいないせいで、
  
私は海外でしばらく活動する事になり、
その分だけ、日本は世界からおいてけぼりを食らうでしょう。
  
  
多くの人は、なぜか
  
【「迷った時の選択」が、人生に多大な差を生む 】
  
という事を、
  
実際に体験しているはずなのに、理解が出来ないのです。
  
  
「別の選択をした自分は、どうなっていたんだろう…?」
  
「別の習慣を持った自分は、どうなっていたんだろう…?」
  
  
と、想像力を働かせる事が無いのです。
  
  
というよりも、
  
むしろそういった事について、
深く考えたくない理由があるのでしょう。
  
  
「別の選択をした自分」について考える事に、
  
これもまた、【 極度な恐怖 】が存在しているのでしょう。
  
  
まぁ、それを直視すると、
  
多くの場合、【 後悔 】が生まれるでしょう。
  
  
その「後悔」を感じたくないので、
  
「可能性」も感じたくないのでしょう。
  
  
しかし、以前の記事に書きましたが、
  
【「後悔」というのは、賢くなるための苦い薬 】です。
  
   
・賢くなるための苦い薬
http://growheart.livedoor.biz/archives/52046646.html
  
  
「後悔したく無い!」という気持ちが強くなれば、
  
自然と、迷った時の選択には「慎重」になりますし、
    
後から後悔しないように、
「全力を尽くしておこう!」という気にもなります。
  
  
ですから、

【 後悔無くして、人生は変わらない 】のです。
  
  
思いっきり後悔しなければ、
「自分の選択の癖・習慣」を変えようという気が湧かない。
  
  
どこかの時点で、思いっきり後悔しなければ、
  
【 自分の「妥協する癖、怠け癖、逃げ癖」を改めて、
 「妥協しない癖、粘り癖、攻め癖」を持とう! 】
  
とも思いません。
  
  
「迷った時の選択の癖・習慣」が、人生に大差を付けるのです。
  
その【 習慣 】が変わらなければ、「人生もそこまで変わらない」のです。
  
  
だから、今後の人生を大きく良くしたいなら、
  
【 どこかの時点で、思いっきり後悔する事 】が必要なのです。
  
  
後悔を引き起こすには、ただ視野を広げれば良いのです。
  
  
【 過去の自分には「違う選択肢」もあって、
  その選択次第で、選択する際の「癖・習慣」も変わって、
  今の自分との間に、大差が付いていた。】
  
  
ただ、それを理解するだけで良いのです。
  
  
大切なのは、【 想像力 】です。
  
  
想像力があるから、
  
シミュレーション(予測・思考内実験)も出来るのです。
  
  
【 今と違う選択をした様々な自分 】を、ただ想像すれば良いのです。
  
その手助けとなる為の絵も描きました。(No.160)
   
   
・これまでの絵画一覧(No.121 〜 No.160)
http://growheart.livedoor.biz/archives/52047411.html
  
  
  
まったく同じ人間で、全く同じ条件下でも、
  
「小さな選択」と「選択する際の癖・習慣」によって、
   
「ホームレス」と「大成功者」くらいの差が生まれる。
  
  
これが、【 人生の真実 】です。
  
  
私は、これがわかっているから、
  
自分の限界まで、粘りに粘るのです。
  
  
「妥協せず、粘って、攻めた自分」は、
  
その癖・習慣が強化されます。
  
  
ですから、さらに「妥協しにくい性格」になります。
  
それに、「妥協しない自分」に対しては、
セルフイメージ(自信・自己評価)も高まります。
  
  
一度でも、妥協して、怠けて、逃げてしまえば、 
  
そちらの癖・習慣が強化されてしまう怖れが大きくなりますし、
  
セルフイメージ(自信・自己評価)もガクッと下がってしまうのです。
  
  
総合的に考えれば、

【 どう考えても、妥協しない選択の方が得 】である。
    
  
という結論に、辿り着くのです。
  
  
「妥協する癖、怠ける癖、逃げる癖」を持っている人は、
  
そういう事が、分かっていないなかったのでしょう。
  
  
【 習慣 】というのは、
  
人生に「恐ろしい程の影響力」を持っています。   
  
  
ポジティブな習慣を持てば、心強いですが、 
  
一度ネガティブな習慣を持ってしまえば、
それを改めるのには骨が折れます。
  
  
そして、「何気ない選択の積み重ね」が、
  
【 自分の習慣を強化 】しているのです。
  
  
ネガティブな習慣を変えたい人は、
  
それを主体的・能動的に改めたくなるほどの、
  
【 激しい後悔 】が必要です。
  
  
ちょっとした荒療治を施さなければ、 
 
なかなか今まで積み上げてきた習慣は、
変えられないでしょう。
  
  
別に、後悔しようとしなくて良いのです。
  
自分の選択と可能性について、視野を広げるだけです。  
  
  
自分の選択と可能性について視野が広がれば、
  
自然と「過去に下した手抜きの選択」を悔いたくなるでしょう。
  
  
良い方にも、悪い方にも、
  
【 自分が過去に違う選択をして、
  違う癖・習慣を身に付けていたら、
  
  どれくらい、今と人生が変わっていたのか? 】
  
  
それについて、
  
想像力を駆使して、想いを巡らせるだけです。
  
  
自分の選択と可能性について、想像力を働かせるだけです。
  
  
それをしない人は、絶対に
  
今後も「現在の延長(惰性)」が続くだけですし、
  
人生がガラっと変わる事は無いでしょう。
  
  
あとは、本人のお好みです。


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